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ちゃぶ台が家庭の中心

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下町雑感 ちゃぶ台が家庭の中心。 おすそ分け醤油や味噌の貸し借りはあたりまえ、勝手知ったる他人の我が家!? e8ab8fe8a8aae7a59ee7a4bee7b881e697a5e9a2a8e699af 7 300x195 ちゃぶ台が家庭の中心楽しきかな生まれ育った下町の想いで、東京は荒川区日暮里、昭和三十年初頭は家もほとんどが木造、平屋、先の縁日の話にでた諏訪神社の境内からは浅草の仁丹塔はもちろん遠方を見渡すと地平線のように見えた。 近隣の道路では明治通り(京成新三河島駅前)や道灌山通り(JR西日暮里駅前)等の幹線を除き街中の道には自動車など滅多に通らない。

※写真:諏訪神社境内より浅草方面を望む だから、道路も子供には遊び場の一つとなっていた。雨が降ったあとも遊び方があった、竹を半分に割りスキーと言って割った竹の上に乗っかってロープにつかまり交代で引っ張る、アスファルトが適度に湿り気を帯びると竹などはとても良くすべる。 誰が見つけたかは判りませんが、あちらこちらで同じ光景が見られた。 晴れれば、石蹴り、道路をキャンバスに見立て蝋石でにわか絵師に、ローラースケートも思いっきり出来た。舗装されていない路地などでは、べいゴマ、ビー球、メンコ、とにかく遊ぶことは尽きることの無いくらいあった。

テレビなど持っている家はまだ少なく、テレビを持っている家に見させてもらいに行った。これも、付き合いの一つでした。筆者宅もテレビが無く、一時期友達の家に夕方見に行きました。親も、そんな子供の姿を見てかすぐに我が家も見せてあげられる立場になったときは何だかとてもうれしかった記憶があります。 町内でも屋根にテレビアンテナが立っていることが、その家の状況を表すように何か見栄みたいなものがあったようです。 我が家は、商売をしていたこともあり、電話なども早くから入っていたので公衆電話がそんなに無い時代、電話の無い家の連絡取次ぎに呼び出しと言う方法が取られていました。

呼び出しの連絡係は、当然子供の仕事でその相手の家に伝えに行くのです。 当時は、都内同士の通話は時間制限がありませんでしたから十円でいくらでも話せたのんびりした時代でした。でも、知り合いと言えども他所の家の電話で話すから手短に済まして終わりにしていました。他所の家の電話を借りて連絡を取り合う、これも下町ならではないでしょうか。 また、他の人が電話を借りに来ることなども当たり前で、一度交換手を呼び出し番号を伝えてつないでもらう、繋がると電話を借りに来た人に受話器を渡す。

話が終わる受話器を電話機に置くと、すぐに電話機のベルが鳴り交換手が電話料金を家の者が聞き取り掛けた人に伝えてその通話料金をもらうと言う方法で終了となる。 場合によっては、そのまま家のものとお喋り談義になってしまうこともしばしばあった。 家の者も仕事を中断し茶をすすりながら話し込んでしまう。そんな光景も日常のことでした。 助け合う心、下町人情そのままで開放的な家が多かったのも特徴ではないでしょうか。 この助け合う心の最たる経験が、他の家の火事で筆者宅も燃えてしまったことがあった。

火事自体は、筆者の記憶にはかすかにしか無いのですが、焼け出されて近所の知り合いの家に家族八人全員が新しい家が建つまでの間、間借りしていたのです。 お世話になっている家だって余裕の或るほど大きな家ではないのに、布団を敷きつめ皆で寝起きした想いでがあります。 自分たちの生活を変えてでも困っている人があれば助けあう、この心の豊かさは何処から出ていたのだろうか。 この話を書いていながら、筆者自身に何が出来ているのだろうかと戒めと共に想いだす言葉「自分で生きているなんて生意気なことを言うんじゃねぇぞ、周りの人に助けられているからご飯を食べて生きていられるんだ」。

当時、金銭でも助け合う仕組みがありました。それが「無尽講」と言われる仕組みで、呼び名は地域によっても変わっていたようです。 ※ 無尽講、頼母子講、恵比寿講と言った呼び名で商店を営む人たちで毎月各々の掛け金を積み立てて、何ヶ月かに一度全員が集まり、くじを引いて当たった人に掛け金の口数に応じて決められた額を貸し出し互いにお金を融通し合う組織と方法の俗称 長方形の木で出来た箱で、細かく仕切りがしてあり上部に切込みがありそこからお金を入れるようになっている簡単な構造で、ガラス窓がすべての区画に付いていて入金の状態がわかるようになっている。

この箱が毎月、無尽講に入っている商店に届くと名前の書いてある区画に口数分のお金を入れて次の商店に持っていくのです。最後に、会計の人に手渡されてまとめて管理されます。 くじに当たっても、今、別にお金が必要ででないとその権利を他の人にあげたりすることも出来る便利な方法のようでした。 よく、何処からともなくいろんな物が来るのも下町ならではの現象、多く作ったから食べてと煮物が届いたり、田舎から届いたからリンゴあげると持ってきてくれたり、明日、潮干狩りに行くから子供ら一緒に連れてってあげるからと誘われる、自分の子供も近所の子供も同じ扱いをしてくれる。

仕事でこれから草加の方へ行くから釣竿持ってうちの子と一緒に荷台に乗って行きなと四家族位の子供ばかり十人位を乗せて釣りが出来るところへ連れて行ってくれる。こんなことも、日常のことでよくお世話になりました。 間違ったことをすると他人の子供も容赦なく叱る、これも、当たり前でした。場合によっては、ゲンコツをもらい痛い思いもしました。 良いこと、悪いことを皆が教えてくれていた。誰かしらから、何らかの声がかかる。子供だから、怪我もするが、それほど大きな怪我をした者は少なかったのは、何らかの警告を与えてくれていたからかも知れません。

当時、かなり危ない遊びで屋根伝いに何処までいけるかを競う遊びをしていた時期がありました。家はほとんど平屋でしたから簡単に屋根に上がれる家から初めて、隣の家の軒先に足をかけてどんどん進んでいくと言う遊びなども流行ましたが、落ちて怪我をした話は聞いたことがありませんでした、後で複数の親からまとめてお灸をすえられて誰も再挑戦するものはいませんでした。 これなど、危ない遊びをしていることを町内の多くの人たちが知っていて、ころあいを見計らい、ここと言うところで止めさせることを心得ていたのかもしれません。

晴れた日、近所の家などで洗濯物が干してあり、天候が急に変わりだし急に雨が降り出して家が留守の時、近くにいるものが変わりに取り込んで置いてやるのも当たり前、家の鍵など昼間はほとんど掛けていない家が多いのも古きよき下町の特徴のような気がします。だから、このような場合も勝手に入り込むことが出来た訳です。 こんな状態なのに昭和四十年後半まで、泥棒にあったと言うことは町内で一軒もありませんでした。これも、付き合いの密度の関係で、開けっ広げの生活なのに隙が無かったのではと思います。

とにかく隣近所のことをみな良く知っている。今風に言えば、情報の共有だから進んでいたのかもしれない。 下町の特徴にもう一つ必ず出てくるものが「駄菓子屋」で件数もこの頃はとても多く、特徴もあった。人気のある店はもんじゃのできる店で、この様式の駄菓子屋は何処も繁盛していた。 このテーブルのあるお店でもんじゃを、皆で食べてわいわいとにぎやかに焼きながら過ごしていたものです。 確か、お椀一杯十円で何も入っていない汁だけのもんじゃに、店で売っている駄菓子を各自が買い求め、混ぜ合わせオリジナルの味に仕立ててみんなでつつきあいながら食べて過ごす楽しい時間でした。

お金に余裕があると、最後にところてんを食べてお終い。 羊羹のような形をした、ところてんの固まりもバケツの中の水が張ってあるだけの中に浮いていて、とても衛生的とは程遠い何とも雑な感じでしたが、突きたてのところ天の味は格別で美味しかった。 子供相手ではあるが何より、ただものを売るだけではない暖かさがあり、お店のおばちゃん、おじちゃんの小言も味のうちだったかもしれない。 下町雑感として想うがままに書いてみましたが、当然、理解に苦しむところもあると思います。 でも、これが当時、日々の情景でした。 世の中殺伐とした今の時代、何か少しでも考えていただける内容のものを見つけていただければ幸いです。

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