昭和30年代、子供ながらの収穫祭「銀杏ひろい」と「お茶の実ひろい」

 

令和元年10月、季節、暦共に「秋」ですが、何という気候でしょう。体感的には「夏」ですね。時代と共に色々な変化が地球には起きているのでしょう。歳を重ね色々考えてみますがどうにもならない。自然に従うしかありません。そんな状況から季節感として子供の頃を振り返り、子供ながらの収穫祭として学校が休みの日曜日の早朝、自転車で「上野公園」を目指して6人、時には10人くらいの編成で、日暮里町(現在:西日暮里)から銀杏を収穫するための「道具?」を各自持って出陣です。

 

子供の自転車で諏訪神社の坂を上り、谷中の墓地を抜けて一直線で30分くらいで上野公園に着きます。大体、6時集合で6時半くらいには準備に取りかかれます。道具と言っても「ソフトボール」と拾った「銀杏」を入れる為の「ビニール製の袋」と「割り箸」です。その場で皮をむいて中身だけを取る方法もあるのですが、先輩たちから皮残すと怒られるから「全部持って行け」と指示が出ているので落ちているそのまま拾ってきます。

 

上野公園に着くと銀杏のなっている木の所へ2人くらいずつに分かれて、回りに人がいないのを確認して「ソフトボール」を枝めがけて投げつけます。結構、高さがあるので腕力の弱い子供では届かない事もあり、そうすると先輩(ガキ大将)が見回りに来て代わりに投げてくれます。ここには子供の世界の序列と、ガキ大将の思いやりがあったのです。良いも悪いも教えてくれた「子供の世界」があったのでした。

 

皆、夢中になっていると何処ともなく「パトカー」が離れたところに止まっていて、必ず「おまわりさん」がやってきます。するとこの対応も「先輩」の役目で色々と講釈を述べ、継続して銀杏を拾うことが出来るのです。故に、汚さない。ソフトボールなら落としてもあまり弾まないのと重みがあるから銀杏を落としやすい等々、子供の世界で継承されている方法から出来たことです。それと、欲張って取らないことも重要でした。

 

そして皆がほどよく取ると撤収となり、今度は帰り道に「谷中の墓地」へ移動します。不謹慎ですが子供には「墓地」も遊び場の対象になっていました。特に谷中の墓地はものすごく大きいので色々な探検が出来た貴重な場所だったのでした。その事から、どこそこの所には「お茶の実」がなっているとか、夏は「蝉の抜け殻」が沢山ある木があるとか色々子供なりの情報交換で大きな遊び場になっていたのでした。

 

帰りがけの「お茶の実」の収穫は、玩具として遊べるので別の感覚で楽しみの一つになっていました。この「お茶の実」で何をするかと言いますと、子供の俗称で「あっちちぃの実」と言う名が付いていました。外の皮をむいて「種」の部分が遊び道具になる部分です。堅い殻で覆われたパチンコの玉より少し大きい位の「種」を堅いところにこすりつけ、摩擦熱を発生させて、他の子供の皮膚に押し当てて遊ぶ少し危ない使い方もありました。

 

もう一つは「殻」に小さな穴を開けて中の柔らかい油分を含んだ実をほじくり出して堅い「外皮」だけにし、指の間に挟んで口にあてがいうまく空気をふき入れると「ピー」と言う音で「笛?」のように音が鳴る玩具としても遊んでしましたあ。この「お茶の実」まれに変異してとても大きくなった物が見つかるときがあります。もうコレは「宝物」になり大切に保管していました。