昭和30年代 自宅からすぐの所に子供が近寄ってはIけないと言われた地域があった。子供の目に入った「売血」の事実。

 

 昭和30年代、子供の目で見た大人に事情の話になりますが書くべきかどうか悩みました。しかし、これも昭和の時代に実際にあった大人の事情と世相的な背景から実在していた事であることを書き残そうと思いました。それは「売血」、読んで字のごとく血液を売ることです。自分の血液を生活するための対価として買ってもらい金銭を得ることで生計を立てていた人達がいたことで成り立っていた事です。

 

※売血(ばいけつ)とは、自らの血液を有償で採血させる行為のこと。日本では1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液の大部分を民間血液銀行が供給していたが、その原料は売血で賄われていた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 私が住んでいた荒川区日暮里町ですが、自宅から子供の足で10分も歩くとその場所はありました。子供同士でも、皆親から行ってはいけない場所として言われていたところです。子供ながらにも「なんでだろう?」と素朴な疑問がわいてきます。それと「怖い物見たさ」も相まって、ある日子供同士数人で、冒険と称してその方向へ出向いて見たのでした。

 

 その該当場所の近くには中学校もあり普通の住宅と工場が建て並ぶ、自分達が住んでいるところとそんなに代わり映えはいないなと子供ながらに感じていました。しかし、途中の道ばたで地べたに横になっている人を見かけた以外、何の変化も見受けられなかったのです。そしてさらに道を進み中学校を越え、横道に目をやった途端、状況は一変しました。

 

 人が沢山いるのです。それも、子供ながらに見たそこにたむろする人々の決してオーバーではない様相と服装は、とても普通の状況ではないことを感じ取ることが出来ました。怖くて頭目で見る事しか出来ません。道ばたに転がりそのまま寝ている人、あぐらをかいて煙草を吸っている人、何人かで輪になり酒盛りしているような人々が沢山いたのでした。

 

 その異様な光景は、何が何だか想像も付かない。その時は親たちの言っていた「近寄ってはいけない場所」だけの言葉は分かっても肝心な意味が全く理解出来ず、ただ呆然と子供仲間でその光景を眺めるだけでした。子供なりに、何かしっくりせず冒険として行ったのに、なにか拍子抜けした感じでその時は家に戻ってきました。

 

 そして家に戻り、なにげに私のすぐ上の兄にそのことを話したら、そのまままた上の兄に伝わり結局家中に広がり最後は父親からこっぴどく叱られました。しかし、父親はこれをきっかけに、何故近寄ってはいけないかをきちんと説明をしてくれました。説明と行っても小学校低学年の私でしたので、その時は単純な理由だけで近寄ってはいない事を教えてくれたのです。

 

 そのもっともな理由は「病気」に感染するでした。「売血」等と説明しても分からないと思ったことからそのように説明したのだと後で読み取りました。しかし、これは決して差別的な表現ではなく無理して血液を売ることで、決して健康な状態の体ではなかったことも意味していたと思います。故に間違った判断ではなかったと思います。

 

 その後で上から2番目の兄が、その場所の近くの中学校へ通っていることで、その兄から新たな情報として色々な話を聞かされました。やはり学校でも、注意で校舎の裏側の方向へは絶対に行っていけない決まりになっていることや、そこの人が学校内に入り込み良く問題となっていることなど色々教えてくれました。

 

 こんな状況の後、学年が上がり自分の自転車を買ってもらったのをきっかけに興味津々、今度は大胆にもその場所へ頻繁に出かけて行ったのでした。失礼なのですが子供ながら遠目で人間観察。子供ながらの疑問はどうしてここへ来るのだろうかでした。
「売血=自分の血を売る」と言うことが理解でなかった。ましてやその行為で「お金」を得られる事が分からない。子供ながらの素朴な疑問です。

 

 観察を重ねていった事と、兄たちからの情報でなんとなく自分の中で色々な状況との結びつきが分かってきたことも大きな事でした。
さすがに顔なじみにはなりませんでしたが、いつも同じ場所にいる人や寝てばかりいる人、昼間から酒を飲んで騒いでいる人等々、特徴も分かってきました。

 

 ここからは、少し大人になり知識も付き判断できる年頃になって判った事ですが、当時いつも道ばたに倒れ寝込んでいる人は、朝一で1回血液を売って得たそのお金で食べたり酒を飲んだりして休み、午後に再度2回目の売血をする人で、その2回分のお金で何日かを過ごし体を休めて、又同じ繰り返しをする人であることでした。

 

 しかし人間の体、そんな簡単に回復はしません。しかし働く意欲も体力も無いから食べて行くには、自分の血液を売ることしか出来ないため、無理して自分の血をお金に換えるしか出来ない。これも後で判った事、売血しすぎて「黄色い血」と呼ばれる状況までになってしまうことです。

※日本で輸血用血液を売血で賄っていた当時、金銭を得るために過度の売血を繰り返していた人たちの血液には黄色い血との俗称がついた。黄色は肝炎の症状である黄疸、また血漿自体の色が黄であることから、赤血球数が回復しない短期間で再び売血することにより、その血液が黄色く見えたことに由来する。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 この地域も今は普通の住宅街になっています。再度、おぞましい話になってしまうのですが、当時この地域は住宅街、すぐそばに学校もある普通の街中です。当然、飲食、雑貨と色々なお店も結構ありました。人が集まれば商売は成り立ちます。どんな形であれ、決して違法なことしている所ではありません。故に商売としては顧客の多い場所で良かったようです。

 

特に印象に残っているのは、パン屋さんと居酒屋さんでいつも人だかりがしていました。ここへ流れてくる人達の多くは、色々な事情もあったのでしょう。しかし、働く意欲がないのは人間としてどうだったのかと思うのです。

 

※出典:血液事業のあゆみより

1952 年  日本赤十字社血液銀行開設
1956 年  「採血及び供血あっせん業取締法」(採供法)施行
1962 年  「黄色い血」追放運動が始まる
1964 年  ライシャワー事件(ライシャワー駐日大使が暴漢に襲われ輸血を受け、売血由来の血液で肝炎に感染した事件)
1969 年  売血による輸血用保存血液の製造を中止(預血制度に切り替え)

 

追記

 

 「ニコヨン物語」とは映画の題名です。まだ小学校低学年の頃に観た映画の題名です。売血にも繋がる、当時の単純作業を行う労働者達の環境を描いた映画の内容です。何故か、子供ながらにこの映画を観たくて映画館へ行ったので覚えています。今思うと、私は子供の頃から変わった考えの子供だったのかも知れません。どう考えても子供が見るような映画ではありません。

 

 「ニコヨン物語」の「ニコヨン」の言葉の意味とは当時の単純作業を行う労働者の賃金(日給)を表した言葉です。100円玉2個、10円玉4個が日給で、それがそのまま「ニコヨン」の呼称となったのでした。この言葉のごとく低賃金、過酷な労働条件でも文句は言えずタダひたすら働き生活をするだけの労働者の人達です。この言葉にはこんな言葉もあります。

 

「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ 雨の三日も降ればよい」

 

 蓄えもなくその日、その日を喰いしのぐ、よって「雨」が降るとお金は入ってこない。言葉のごとく3日も降れば「飢え死に」してしまう。を皮肉って言葉にしたのが始まりです。

 

 「ニコヨン物語」の映画の中では、人情物語そのままに互いが助け合い、劣悪な環境でも明るく楽しく、生活していく様を描いていて子供ながらに何か人間らしさと心の豊かさをとても感じました。

 

過去の呼称

 

労働者の呼称は、ニコヨンが人足(にんそく)になり土方(どかた)、日雇い労働者

限定労働者として沖仲仕(おきなかし)、港湾労働者

職業斡旋は、口入れ屋、手配師、斡旋屋、職業斡旋所

管理側は、長(おさ)、頭(かしら)、頭領(とうりょう)、