お小遣い

昭和30年代、子供の小遣いと欲望?

 

昭和30年から38年、下町の一般家庭で小学生を対象とすると駄菓子屋の商品価格が最低1円から、高い物で30円(子供ではかなり高額)買うことが出来た時代の話です。
私は、荒川区日暮里町(現西日暮里)の生まれです。日暮里駅近くには、今はなくなってしまった「駄菓子の問屋街」があり、子供ながらに憧れの場所で、少し冒険して足を運んだ場所でもありました。

 

自分が住んでいる町内の駄菓子屋には売っていない物が沢山あり、いつも「ほしい、ほしい」の気持ちが高鳴る夢の王国に見えました。この問屋のルール(バラ売りしない)など子供には判りませんが、子供なりの算数で一つあたりの「原価」を計算するのです。そして安いと感じるときでもあるのですが、同じ物を沢山買ってもしょうが無いと感じるときでもあります。

 

しかし年に一度だけ行動に移せるときがあるのです。それは、お正月。お年玉をもらい懐が潤ってお金があるときにだけ「大人買い」出来るのです。しかし、意気込んで正月明けに駄菓子問屋が開く頃に、目を付けていた「当たり物※クジ付」の物を買おうと店の人に買う旨を伝えると「子供は駄目」と断られてしまうのです。

 

そのことは大人になって判った「商売のルール」でした。クジになっていて、当たらないと良い物がもらえない。当たり前の仕組ですが、子供からすれば「中々当たらないクジ」を当たり含めて箱で買えば、当たりが黙って付いてくる。多少高くても、子供なりに「大当たり」を得る事が出来るのですから当たり前です。しかし、そんな事を無視して問屋が1年に1回しかこない子供に売っていたら、駄菓子屋が売れなくなってしまいます。

 

仕方なく、商品変更で「ガム」などの中に景品として「絵合わせカード」が入っているもので全部の「カード」が揃うと「景品」がもらえる今でもあるようなタイプの物です。ガムばかり「100個」位入った物で子供なりに「箱買い」するのです。そして、ここでも大人の世界を教えられるのです。意気揚々と箱買いしたガムを家に持ち帰り一つ一つ開けて「カード」を取り出して整理しながら全部揃うことを願いながら最後までむいたときに夢から覚めるのでした。

 

「100個」入っているのに同じような物ばかりで、必要なカードを全部揃えるに全体の1/3にも満たない種類しか揃わないことにガッカリです。夢破れ毎日、少しずつそのガムを食べ、子供なりにむなしさを感じながら過ごすのでした。この方法で後に、何人かで「共同出資?」して子供なりにかなりな量を買って再度挑戦してみたときがありましたが、結局、揃わないことを知った悔しさの再来でした。

 

色々な家庭事情もあるのですが月極で小遣いをもらっている子供は私の周りには、一人もいませんでした。私の家は、毎日「10円頂戴」の繰り返しで3回くらいまではもらえました。しかし、駄菓子屋で菓子を買えばすぐに無くなる。そして、小遣いが底を付いた頃の夕方に限って「紙芝居」、学校の近くに遊びに行くと「型粘土」、「あめ細工」のおじさんが来ているのです。しかし、親からこれ以上もらうことが出来ない。

 

計画的にお小遣いを使うことを学んだのです。そうです。すぐに使うのではなく「貯める」。
しかし、誘惑と欲求には勝てず長くは持たなかった今も変わらない子供の頃の私でした。

 

※日暮里の駄菓子問屋は2000年を過ぎた頃から「再開発」で徐々に立ち退き2003年には完全に消滅してしまいました。現在、新しくなった駅ビルの中で営業されている駄菓子の問屋さんがあります。

 

番外編

 

究極の子供ながらに覚えた物々交換により「物を得る方法」とは? 冬の夕方などに来る「おでん」、「石焼き芋」の屋台。この当時の屋台の燃料は「薪」です。悪知恵が働く私含め子供たちは、この時期を楽しみにしていました。それは、普段の遊んでいる所々で「廃材」を見つけては「秘密基地」と称していた場所に拾い集めてきた「廃材」をため込んでおくのです。貯めると言っても拾ってきての物ですので量はしれています。

 

そして屋台が来ると貯めておいた「廃材」を持って行き「おでん」の屋台のおじさんに「おでん」と交換してもらい、子供たちでしばしの食事会を開けていたのです。「焼き芋」の屋台のおじさんも同様に「焼き芋」をもらえるのでした。しかし、親にこのことが見つかりそれ以来出来なくなってしまいましたが、子供ながらに物流を実地で体験できた楽しき時代でした。

 

何故、こんなことを覚えたか? それは「懐かしき昭和の街景色」の「爆弾あられ」で書きましたが「お米」を持って行くとその何割かを「手数料」として手数料分のお米だけを取り除き残りの「お米」を「爆弾あられ」にしてくれるのでした。このことの応用で先の「物々交換」が出来たのでした。

憧れの繁華街

 

秋葉原から上野アメ屋横丁へ

皆さんご存知の東京は秋葉原、昭和三十年代は電気製品が一般家庭に入りだした黄金時代の幕開けで、三種の神器と騒がれたテレビ(白黒)、冷蔵庫、洗濯機を競うように買い求め一般家庭にも普及し始めた。

 

秋葉原で新しい商品を眺めるそれだけでも満足出来ました。とにかく、目新しい物ばかりですべてに興味がありましたから縁日の露店を見物する感覚でぐるぐる回遊していました。毎月、必ず日曜日に見に行く、テレビ、ラジオ、冷蔵庫、扇風機、トースター、ミキサー、行く度に商品が増えていく、販売店の展示コーナーも様変わりしていくそんな中、気になる物がありました。

 

レコードプレーヤーです。でも、その当時の呼び名は「ステレオ電蓄」と言う呼び名で、薄いレコード盤から聞こえる音に魅了されて、もう欲しくて欲しくてたまりません。 今まで聞いたことのあるのは「SP盤」言われる音質も良くない、落とすと割れると言ったものしか聞いたことがありませんでしたから、薄いプラスチックのようなレコード盤が回りプレーヤーから再生され聞こえてくる音のよさとデザインに酔いしれていました。

 

用途は娯楽品でしかないですから、そう簡単には買ってはもらえませんから一度、家族みんなで見に行こうと説得し、雪の降る中見に行きました。父親もなぜか納得してくれ、帰りには寒さも忘れ兄弟でプレーヤーの入った箱を交代で手にぶら下げて重さなども忘れ早足で家まで帰っていきました。

 

ここで、家電製品の購入先について触れますと、普通では近所の一般小売店で買うのがほとんどでした。当時は販売価格も今ほど情報も無く高い安いの比較は出来ませんでしたから、贔屓の電気屋さんの販売価格を信用するしかありません。カタログなどもよほどでないともらえません。たとえば、新聞で紹介されたら新聞のそのままを伝えて注文するのが普通でした。

 

そんな時代に、秋葉原の大量仕入れ大量販売による価格破壊は家電販売店に少しずつ影響を与えだしました。東京オリンピックが開催されカラー放送が開始されると一般家庭でもカラーテレビを購入するところが出てきました。白黒テレビもかなりの普及をしていましたから、コマーシャルも盛んに流されています。

 

白黒テレビの数倍する販売価格のカラーテレビです。安さを強調する営業戦略を持ったコマーシャルは人々を秋葉原へと導いていました。
実際に、商品を見ることが出来てパンフレットももらえる、商品もすぐに手に入る、値引きもしてくれる、説明もしてくれるなどが広がり、魔力を持った家電の街に変貌していくのです。

 

もう一つ秋葉原に通った理由があります。それは、電気(電子)部品を買いにいくこともしばしばでゲルマニゥムラジオから始まり、電子工作が大好きで小学生の頃から色々なものを作っていました。
肝心な学業はそっちのけでなにやら工作の記事が出ていると、必要な部品を書き出し、工作手順、注意点、調整などと言った作成手順をつくり、完成までかかる費用を積算し小遣いの前借交渉を行い、成立すると今度は当然、秋葉原でも今までのような店とは違い、部品を売っているところに行くのです。

 

この部品を売っている所は、店舗の販売内容が一部変わったの別にすれば何十年とほとんど変化がありません。
何かここだけ時間が止まっているようにも感じてしまいます。真空管が全盛のときは、扱う部品も大きめのもが多かったのが、今の時代、抵抗、コンデンサと言った部品自体がチップ化されているから、実験で使用するようなバラの部品も小型のものになっているようです。

 

懐かしさと、ほっと安心したのは「ゲルマニゥムラジオ」のキットがいまだに売っていたこと。ラジオの原理を知る上ではとても勉強になる作成キットです。
秋葉原を見尽くすと、こんどは御徒町に向かって歩きます。たいした距離でもなく、路面電車もありましたが電車賃がもったいないから歩いて移動、目指すは松坂屋デパートです。

 

エレベーターもただで乗れる楽しい乗り物でした。最初に目指すのは玩具売り場、ここにはため息の出るような新しい商品が並べられていました。電池で動く船外機の付いたクルーザーの模型、外国のものと想われるエンジン動力の模型の自動車、この自動車、当時ラジコンなど無いですから、車の横にワイヤーを掛けて片方の留め金を地面に杭を打ちつけてエンジンを掛けて走らすとぐるぐる回るだけのものでしたが、金属で出来た車体でずしりとした重さと精巧に作られた外観は堪らない刺激を与えてくれました。

 

次に目に入るのが、鉄道模型です。これも国産と外国産とがあり見ごたえがありました。自分自身では「オーゲージ」と言う全体に大き目のサイズの模型を幾つか持っていましたが、このサイズが小さくなればなるほど高くなるのがこの模型の特徴でそれでいてより本物に基づいて精巧に作られているからすばらしいのです。

 

ここも、ため息を付きながら後にして、今度は、屋上に上がり有料の望遠鏡であちらこちらと覗き見てからエレベータで一気に一階に下りて、アメ屋横丁、通称「アメ横」に向かいます。皆さんご存知の「アメ横」ここはもう別世界、夕方ともなると平日、日曜も関係なくいつも人込みがある街、食品、衣料品、見るものすべてが初めてのものばかり、ガム一つとってもものすごい数の種類があり、色、形と選ぶのに迷います。価格も安かったから小遣いでも十分に買うことが出来ましたし、チョコレートも種類と形状の違った物が沢山ありました。

 

その中でよく買ったのが「コインチョコ」いろんな外国のコインを模ったホイルでお金のように包装されたものです。口をもぐもぐさせながらアメ横の中ほどに位置する「中田商店」へ向かいます。中田商店とは、モデルガンの販売店で、この時代はテレビも映画も西部劇がは流行っていた時ですから、それにあわせた演出の販売を行っていて、店員さんも上から下までカウボーイの格好で、拳銃捌きを見せてくれました。

 

夕方になると、ちょっとした寸劇を見せてくれるのです。互いに向かい合い、決闘のシーンを演出し早打ちを披露してくれたり、拳銃の特徴等を説明してくれたりで楽しいひと時を過ごせましたが、ただ、実際に購入するお客さんは少なかったです。モデルガンの価格はかなり高額でしたから興味があっても買うことは出来ませんでした。他愛のない、懐かしき想い出の一コマでした。