日本

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小さな映画館が区内に身近な娯楽として邦画専門、洋画専門の映画館があった。

 

 

昭和30年代、「テレビ」がまだ一般家庭に普及していなかった時、大人も子供も唯一の楽しみであった「娯楽」で大きな影響を受けていたのが「映画館」でした。私が住んでいた日暮里町だけでも「邦画専門※近所の名画座」、「洋画専門※近所の三島館」の「小さな」と言っても100人は入れる。少し離れると2階席もある所もありました。

 

たまに、映画などで当時の映画館の描写などがあり言葉の表現が悪いのですが「小便くさい」がそのまま当てはまる実際の状況でした。しかし、この時代誰もそんなことは考えていなかったと思います。近所の邦画専門の映画館で上映されていた「二等兵物語」、伴淳三郎と花菱アチャコの戦争を題材にした映画では物語に大人も子供も皆スクリーンの中に入り込んでいた気がします。

 

子供向けでは「スーパージャイアンツ※故 宇津井健」、邦画のSFでは「マタンゴ」や「モスラ」、洋画では「シンドバットの冒険」、「宇宙大戦争」等、洋画専門の映画館へ見に行きました。確か邦画は安いところで「35円」、普通の邦画館で「45円」、洋画専門館は「55円」だったと記憶しています。そしてテレビが普及しだした時でもあり、私も近所の映画館へも足が遠のき始めた頃でもありました。

 

その中でも邦画「世界大戦争※故 フランキー堺」を観に行ったのは何か身近に感じた映画でした。それは、映画の中の一部のシーンでしたが友達の家が撮影に使われたからでした。映画の撮影をしているところを遠く離れて見ていて、とにかく大人数であれやこれやと忙しく動き回っている姿を始めて見たときは訳が分からずでした。

 

そしてどうなって映っているかを見たくて観に行った映画でもあったのです。ちなみにどこかと言うと、今の西日暮里駅の脇にある崖の上の開成高校の野球グラウンドのすぐ近くにある友達の家で当時は都内が一望できた見晴らしの良い場所でした。
そんな庶民の娯楽の映画館もテレビの普及に伴い、1件、2件と「廃業」を余儀なくされ無くなってしまいました。

 

追記

 

昭和38年、中学校までは学校の授業の一環で近くの映画館まで歩いて行きました。上映されたのは、小学校は「大鵬物語」、中学校は「キューポラのある街」をぞろぞろ引率の先生が引き連れて映画鑑賞を行っていた時代です。見終わった後、教室へ戻ると待っているのは「感想文」です。

 

学校とは違う、新宿「ミラノ座」へ兄に連れっていってもらって観たディズニー映画「うっかり博士の大発明 フラバァ※昭和36年」は大きなスクリーンと大音響で大興奮した思い出もありました。

昭和30年代町内の子供は遊びが主流、なぜか「そろばん塾」へは多くの子供が通っていた。

 

子供の頃は本当に色々な「遊び」を兄弟や先輩から伝授され、一緒に表で遊びました。今のように「自動車」等も少なく、路地裏の道は何処でも子供にとっては全て遊び場です。道路の舗装自体も行き渡ってはなく、土がむき出しの路地が沢山あるので転んだりしても大きな怪我はしませんでした。

 

遊びの種類を並べると、お金を掛けない遊び「石蹴り」、「釘刺し」、「馬跳び」、「駆逐水雷」、「野球」、「缶蹴り」、「S字けんけん」、「縄跳び」、流行の「何々ごっこ」、駄菓子屋で買った物で遊ぶ、「ビー玉」、「ベエゴマ」、「コマ回し」、「メンコ」、「チエリング」、等々、沢山ありました。

 

こんな状況の時代です。勉強をきちんとしているのは、私の住んでいた町内会では、常に遊ぶことを優先していた遊び仲間10人に1人くらいで少なかったです。そんな、のんきな子供の多い町内ですが、何故か「そろばん塾」はほとんどの仲間が通っていました。だから、行動が常に一緒なのです。

 

そろばん塾に行っても、顔を合わせる事が多く「そろばん」の勉強をやっていても悪ふざけして怒られる。しかし、しばらくすると自然と勉強の差がでて「そろばん塾」に通う時間帯に差が生じてきて、「何級?」と競い合うようになって来る頃から「昇級」がうまく出来ずにいると「脱落者」も出始めましたが、結構、残留組は多く残りそれなりの「級」を取る仲間が増えた時でもありました。

 

色々な科目に取り組む姿は、真剣そのもの普段遊んでいるときには絶対に見せない。しかし、答え合わせが始まると、普段の顔に戻り互いの戦果を見せ合い。正解すると色の付いた「カード」がもらえる。そして獲得したカードを帰りがけに、「そろばん塾」の先生に枚数を報告しカードを返却する仕組で、規定の枚数まで貯まると昇級試験を受ける事が出来る仕組でした。

 

各子供の親たちは「読み書き、そろばん」の言葉そのままに、当時、「そろばん塾」にだけは通わせたのだと思います。遊びに夢中の仲間たち、そして他の町内会の遊び仲間も含め子供の社交場でもあった「そろばん塾」は別な意味で楽しい時間を過ごせた思い出になりました。
ちなみに私は小学校4年「3級」で脱落しました!!

毎月開催 骨董市(富岡八幡宮 境内)

 

毎月開催 毎月第一・第二・第四・第五日曜日 日の出~日没

 

名称:骨董市(富岡八幡宮 境内)

場所:東京都江東区富岡1-20-3

交通:営団地下鉄東西線 門前仲町駅 徒歩3分
都営地下鉄大江戸線 門前仲町駅 徒歩6分
JR京葉線 越中島駅駅 徒歩15分

 

昭和30年代、子供ながらの収穫祭「銀杏ひろい」と「お茶の実ひろい」

 

令和元年10月、季節、暦共に「秋」ですが、何という気候でしょう。体感的には「夏」ですね。時代と共に色々な変化が地球には起きているのでしょう。歳を重ね色々考えてみますがどうにもならない。自然に従うしかありません。そんな状況から季節感として子供の頃を振り返り、子供ながらの収穫祭として学校が休みの日曜日の早朝、自転車で「上野公園」を目指して6人、時には10人くらいの編成で、日暮里町(現在:西日暮里)から銀杏を収穫するための「道具?」を各自持って出陣です。

 

子供の自転車で諏訪神社の坂を上り、谷中の墓地を抜けて一直線で30分くらいで上野公園に着きます。大体、6時集合で6時半くらいには準備に取りかかれます。道具と言っても「ソフトボール」と拾った「銀杏」を入れる為の「ビニール製の袋」と「割り箸」です。その場で皮をむいて中身だけを取る方法もあるのですが、先輩たちから皮残すと怒られるから「全部持って行け」と指示が出ているので落ちているそのまま拾ってきます。

 

上野公園に着くと銀杏のなっている木の所へ2人くらいずつに分かれて、回りに人がいないのを確認して「ソフトボール」を枝めがけて投げつけます。結構、高さがあるので腕力の弱い子供では届かない事もあり、そうすると先輩(ガキ大将)が見回りに来て代わりに投げてくれます。ここには子供の世界の序列と、ガキ大将の思いやりがあったのです。良いも悪いも教えてくれた「子供の世界」があったのでした。

 

皆、夢中になっていると何処ともなく「パトカー」が離れたところに止まっていて、必ず「おまわりさん」がやってきます。するとこの対応も「先輩」の役目で色々と講釈を述べ、継続して銀杏を拾うことが出来るのです。故に、汚さない。ソフトボールなら落としてもあまり弾まないのと重みがあるから銀杏を落としやすい等々、子供の世界で継承されている方法から出来たことです。それと、欲張って取らないことも重要でした。

 

そして皆がほどよく取ると撤収となり、今度は帰り道に「谷中の墓地」へ移動します。不謹慎ですが子供には「墓地」も遊び場の対象になっていました。特に谷中の墓地はものすごく大きいので色々な探検が出来た貴重な場所だったのでした。その事から、どこそこの所には「お茶の実」がなっているとか、夏は「蝉の抜け殻」が沢山ある木があるとか色々子供なりの情報交換で大きな遊び場になっていたのでした。

 

帰りがけの「お茶の実」の収穫は、玩具として遊べるので別の感覚で楽しみの一つになっていました。この「お茶の実」で何をするかと言いますと、子供の俗称で「あっちちぃの実」と言う名が付いていました。外の皮をむいて「種」の部分が遊び道具になる部分です。堅い殻で覆われたパチンコの玉より少し大きい位の「種」を堅いところにこすりつけ、摩擦熱を発生させて、他の子供の皮膚に押し当てて遊ぶ少し危ない使い方もありました。

 

もう一つは「殻」に小さな穴を開けて中の柔らかい油分を含んだ実をほじくり出して堅い「外皮」だけにし、指の間に挟んで口にあてがいうまく空気をふき入れると「ピー」と言う音で「笛?」のように音が鳴る玩具としても遊んでしましたあ。この「お茶の実」まれに変異してとても大きくなった物が見つかるときがあります。もうコレは「宝物」になり大切に保管していました。

 

東京福めぐり

 

  「折帖」を片手に東京を巡る開運さんぽ

 東京福めぐり

   開運八社さんぽ

 
   ※キャッチコピー出典:紹介パンフレットより

 

 

私は「浅草神社」で購入したのですが大変立派な「折帖」で屏風のようになっています。「満願成就」目指し、時間の調整をしながらのんびりと回っていこうと思います。

 

 

 

参拝印名称お社住所奉拝
浅草神社〒111-0032
東京都台東区
浅草2-3-1
令和元年
九月
二十七日
烏越神社〒111-0054
東京都台東区
鳥越2-4-1
福徳神社〒103-0022
東京都中央区
日本橋室町2-4-14
波除神社〒104-0045
東京都中央区
築地6-20-37
烏森神社〒105-0004
東京都港区
新橋2-15-5
高輪神社〒108-0074
東京都港区
高輪2-14-18
戸越八幡神社〒142-0041
東京都品川区
戸越2-6-23
上神明天祖神社〒142-0043
東京都品川区
二葉4-4-12

50円の「オーダーメイド」の「野球バット」と30円の「オーダーメイド」の「卓球ラケット」

 

タイトルを見て「?」が沢山浮かんでいる事と思います。私の住んでいた荒川区日暮里町の家の周りの色々な職業が混在していた頃のお話です。今もある会社で皆さんご存知の「トンボ鉛筆・ハーモニカ」の工場も家から子供の足で2分と掛からない所にありました。
子供ながらに、色々な人づてでタイトルのごとき「オーダーメイド」の「野球バット」や「卓球ラケット」がお小遣いを少し貯めれば自分の好みの形で作ってくれた本当の話です。

 

職人さんが子供向けに作ってくれた、この会社は現在も大きなメーカーで活躍していますので、当時の職人さんの事を考慮し名前は伏せさせていただきます。野球バットの注文は夕方5時移行の時間で6時前までと決められていましたので、この時間に合わせて工場の裏手にある「材料置き場」へ出向き、自分の好みの木材を探します。気に入った色合いの木材を見つけ、工場の中で片付けをしている職人さんのところへ、選んできた角材を渡すと大凡のバットの先の太さ、グリップの太さ、バットの先端の形状(角丸か芯を凹ませる)、そして長さを伝えると、機械(ロクロ)にセットして成形が始まります。

 

角材が沢山の切りくずと共に丸くなって行くのを眺めていると、途中で機械を止めて職人さんから「確認しろと」声を掛けられます。そして、子供なりの目で見て、グリップの感触を触って確かめ良いですと伝えると、今度は仕上に入り木の表面がツルツルになっていくのを見ることが出来ます。但し、バットの「芯」の加工や「塗装」はしていません。しかし、無垢ですが磨きを掛けてもらったバットの表面はツルツルでなんともいえない「マイバット」に生まれ変わるのです。完成後に「50円」を支払自分の物になります。

 

このバットの他に「卓球ラケット」を作っている工場(こうば)があり、こちらは同級生の家だったので遊びに行くと「30円」で新しい形の物が出来るから作ってあげるよと、友達のお父さんに声を掛けられます。当時、卓球のラケットの形は「角丸四角※ペンラケット」と言われる形状がほとんどの時代でした。この形のラケットは、友達の家で作られていた「不良品」をもらっていたのでもっていたのですが、「新しい形」とは「丸形」の「シェイクハンド」と呼ばれる形の製造が始まったことを意味していたのです。

 

始めて見る形に驚きと何やら貼り付けるラバーも最新の素材らしく、いわば試作のような形なので「30円」の手数料?となっていたようです。但し、グリップは木材でゴツかった記憶があります。それでも近所の「卓球場」へ持って行くと、珍しがられて「貸して」の声が多く掛かって即席の人気者になりました。昭和30年初頭、当時の下町は本当に「家内工業?」が沢山ありました。しかし、町の変化で「騒音」、「臭気」等々で地方へ移設していってしまいました。

 

他にも「テニスボール」を作っているところがあり、ゴミ置き場に不良品として捨てられている「テニスボール」が沢山出ている。それを子供ながらに恐る恐る工場の人に「一つもらえませんか?」と代表を決めてお伺いをしていくのです。すると、工場から出てきて子供の人数分良い物を選んでくれて、各人1個づつくれるのでした。下町の家内工業で最も有名な「おもちゃ屋」さんでゼンマイ仕掛けで動く世界的にも有名な「おもちゃ屋」さんが我が家から1分の所にあって、こちらは年に数回「バザー」があり「破格値」で工場の倉庫で販売されるときがあり楽しみの一つでもありました。

 

当時は今考えると本当にのんびりとした時代でした。今、ギクシャクとした時代に、何の役にも立たない自己の記憶を文字にするだけになっておりますが1億人の一人の方でも何かを感じてもらえればと書き起こしております。

刑務所作業製品(今は、キャピック)、60年以上たった今・・・

 

刑務所作業製品(キャピック)、この言葉からはあまり良い印象は浮かばないことと思います。「掘りの中の・・・」そうです。訳あって刑務所に服役している人たちが、服役後、手に職を付け社会に順応出来るための基礎訓練を目的として今も全国の刑務所で進められている「物作り」で販売会も開催され、良い物を手頃な価格で購入できることでも広まっています。

 

何でこんなことを書くかと言いますと、刑務所作業製品で購入した「木製洋服ロッカー」現物が60年以上経過した今も現役であるからです。この事も昭和の時代の出来事として残して置きたいお話の一つです。昭和30年初頭、実家の家業である「洗濯屋」が繁盛し、少し余裕が出た頃だと思います。

 

当時、私は6歳くらいの頃、父方のおじさんが当時「刑務官」をしていて、詳細は後に知ったことですが注文した「木製洋服ロッカー」を「刑務所作業製品」として洗濯屋の店先に据え付けてくれました。子供ながらに覚えていることと、とにかくがっしりとしていて大きなガラス戸が付いた立派な家具です。用途はお客様の高額な洗濯物を保管するために設えてもらった特注品でした。

 

今みたいに重機はないので搬入と設置は人界作業です。そのときに制服姿で作業をしていたのが「服役」している人だったことを後で知りました。今はどうか判りませんが、父からの話では、大きさや、使う木材(樫)を指定して注文が出来たそうで、大人になって移動する機会があり、兄弟でいざ持ち上げようとしてみて判ったのはとんでもなく重いこと、そして数十年経過しているにもかかわらず何の狂いもなく当時のままの状態を維持していることでした。

 

その技術のたかさと、良い物を作るために一生懸命に作業をしてくれた訳ありの人々に驚かされるのです。そして時代も変わった今も「刑務所作業製品」は全国で色々な物が作られ、世に出てきています。今、実用品もありますが家具や工芸品等はもう芸術品、美術品と同じです。
よって販売価格も見合った価格になっていますが、審美眼を持った方にすれば破格に安いと思われるようです。

「夏は小学校の校庭で映画上映」された古き時代、夏の思い出

 

今や、いつでも、何処でも、形を問わず「映画」を見ることが出来る、何の不思議もなく当たり前の時代です。この話は、多分「???」がいっぱいになるかも知れません。後で判ったことで「地域」の違いで相当の差があるようです。確立的な「知らない」と答える人が相当多いと思います。そんな昭和30年代の夏の夜の「映画」の取り上げた娯楽の話になります。

 

下町にも小さな「映画館」が娯楽の施設として「洋画」、「邦画」と分かれて結構ありました。邦画で確か「子供40円」、洋画で「子供50円」位で見ることの出来た時代の話で何の役にも立たない懐古な情景の思い出話です。

 

夏休みに入ると気になる「町内の掲示板」、子供が見るのは「夏」だけです。この掲示板に張り出される「映画上映」の案内が楽しみの一つになっていました。夏の夜、学校で映画が上映されるのです。それも「名画」です。今では絶対にあり得ない子供も大人も対象になる「名画」が学校の校舎に大きなスクリーンを設置し、朝礼で使うあの大きな台の上に大型の映写機を設置し、時間になると大きな音量と大きな画面に映し出される本当の映画に、子供も大人も真剣い皆見入るのです。

 

音は相当でかい音量で、よく、近くの家からクレームが出なかったのか不思議です。入場料もなく全て「無料」で誰でも制限なく見ることの出来る映画です。子供ながらに覚えているのが「美空ひばり」が出ていた「狸御殿」や「ビルマの竪琴」、「のんちゃん雲に乗る」、「清水次郎長」等々、洋画はなく全て「邦画」でした。そして学校により上映される映画も違うことがあるので、少し遠征しても見に行きました。

 

上映される場所(学校)により「屋台」が出ていることもあり、何かを食べながらゴザを引いて寝そべって見るのも自由、椅子を持ち込んで邪魔ならないところで見るのも自由、別に、ルールが書かれてていて制限があるようなこともなく、自然と互いが注意し他人に迷惑を掛けないようになっていました。当然、子供も多いのですが「騒ぐ」ことはほぼ無く映画の世界にに引き込まれるように見入っていたのを覚えています。

 

今の時代ではあり得ない古き良き時代、下町の夏のひととき大きな娯楽の思い出でした。

終戦記念日、進駐軍と父の思い出

 

終戦記念日が近づくたびに思い出す父親の生き方、私の父親は終戦後から「洗濯屋」を営んでいました。根っからの「職人」で病で入院するまでアイロンを握り「手仕上げ」にこだわり仕事を続けていました。6人(男4人、女2人)の子供をもうけ私は一番下、そして生きていれば私の姉にあたる一人を幼い頃に失っています。

 

父はとても怖い存在でしたが、お客様には腰が折れ曲がるくらいに挨拶をする。このことは家族全員、幼い頃からうるさくと言うより出来なかったら「げんこつ」のご褒美がくるような家庭になっていました。そんな父ですが、色黒テレビが我が家に来た頃にテレビで戦争の記録映画が放映されると、戦争にまつわる色々な話をしてくれました。当時、私は8歳くらいの頃でした。

 

しかし、ここに子供ながらに疑問がいつも頭の中にわいてくるのです。それは、父は兵隊として戦争に行っていないこと。招集され「兵隊」として戦場に行かれた方たちからすれば「非国民」と言われるかもしれません。ある程度の歳になった私に、実際、終戦後には回りから陰口を相当言われていたと母親から聞かされていました。

 

前振りが抽象的になっていますが、ここからが本題の話になっていきます。何故、父は「兵隊」として徴用されなかったのかの疑問です。単純に「兵員」としての徴兵検査で「丙種」で兵隊にはなれなかった事実です。「身体上極めて・・・」となっていますが、身長が低いだけで何の問題もない体です。では何故に落とされたか不思議な所なのですが、何処にいたか? 栃木県にある「発電所」を見守る整備員として働いていたのです。

 

終戦後は「洗濯屋」ですが、戦争前の若い頃に男浪漫の外国航路の貨物船の「機関員」をしていて何年も世界中を回っていたことでした。そんな生き方が戦争が始まり、別の形で「技術者」として国内ですが影の力として働いていたです。何年も船の中で生活をする中で、当然ですが衣類の洗濯がつきまといます。そこで、器用だった父は乗船している仲間たちの衣類を綺麗にする「洗濯係」を請け負っていたそうです。

 

そんなことが終戦の後に生活の手段になるなどとは全く予想も付かなかった事だと思います。この技術は家族を支える職業として「洗濯屋」開業となるのですが、終戦後の何もかも失っている世の中で衣類にお金を払ってまで誰が出すでしょうか。ここに、誰も驚く度胸というか生きる力がそうさせたのでしょう。この話は大人になってから父が話していた事をやっと理解できた時でもありました。

 

父はお客獲得に「進駐軍」に営業をしに行ったのでした。ここのところは私の創造かもしれません。しかし、実際に私が3歳前後(昭和28年)の頃になりますが残留していたアメリカ、イギリスの軍人さんが直接、店に来ていましたから何らかの方法で繋がりが出来ていたのは「ランドリーボーイ」として将校の軍服を綺麗にする仕事の技術を評価され「帽子」から「軍服」、「ワイシャツ」、「靴下」までも綺麗に仕上ていました。故に、店に仕上げられ天井に吊してあるのは、ほとんどが「軍服」でした。

 

そして配達の時にうろ覚えの地域ですが王子か大塚のあたりにあった進駐軍の施設に連れられて行った記憶があります。若い頃に働いていた外国航路の経験で英語が少し話せたのが、全ての始まりとなり、きっかけとなったのでした。色々、お土産を持ってきてくれた人たちの中で、我が家で知り合った父方の叔母さんはイギリスの兵隊さんと結婚しイギリスへ渡ってしまいました。

 

私が一番下なのでよく言われていたこと「勉強も大切」だが、「何が技術を身につけろ」をしつこく言われていました。そして今、亡くなった父、母、の思い出と共に自身を振り返りこの年までどうだったのか回想するのですが、勉強はそっちのけでものにもならずでした。少し、父の系統を引き継いだとすれば「少しの器用」と些細な事でも人の役に立つような「徳を積む」事くらいです。しかしこの「得を積む」言う言葉は難しいですね。

 

終戦記念日間近で父の話を書きましたが、お役に立てるなどとても出来ません。だからこそ出来ることとして「昭和」の出来事でも残して置きたいと思い「いいもの にっぽん」を正式には1995年に立ち上げていました。途中、ノスタルジックエッセイとして出版プロジェクトで発行もされました。しかし、まだ現役で小さな会社を運営している最中で本当に「放置状態」ばかりでした。やっと、最終ゴール(自身の没)が近づき一応完成させるために全力投球でこれから進めて行くことに努力をしていきます。

 

保管されている実家が「疎遠」となる事象が発生し、最後にまとめて「昭和(父、母、進駐軍、下町の情景)」の写真をデジタル化する計画でいた集大成が出来なくなってしまったことに悔いが残ります。

毎月 8の付く日 開催 新井薬師

 

 

毎月 8の付く日

 

名称:新井薬師 八の市

場所:東京都中野区新井5-3-5 新井薬師梅照院

交通:西武新宿線 新井薬師前駅下車 徒歩5分
   JR中央線 中野駅下車(北口) バス5分
   関東バス 新井薬師前・北野神社 下車 徒歩1分

 

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