昭和

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刑務所作業製品(今は、キャピック)、60年以上たった今・・・

 

刑務所作業製品(キャピック)、この言葉からはあまり良い印象は浮かばないことと思います。「掘りの中の・・・」そうです。訳あって刑務所に服役している人たちが、服役後、手に職を付け社会に順応出来るための基礎訓練を目的として今も全国の刑務所で進められている「物作り」で販売会も開催され、良い物を手頃な価格で購入できることでも広まっています。

 

何でこんなことを書くかと言いますと、刑務所作業製品で購入した「木製洋服ロッカー」現物が60年以上経過した今も現役であるからです。この事も昭和の時代の出来事として残して置きたいお話の一つです。昭和30年初頭、実家の家業である「洗濯屋」が繁盛し、少し余裕が出た頃だと思います。

 

当時、私は6歳くらいの頃、父方のおじさんが当時「刑務官」をしていて、詳細は後に知ったことですが注文した「木製洋服ロッカー」を「刑務所作業製品」として洗濯屋の店先に据え付けてくれました。子供ながらに覚えていることと、とにかくがっしりとしていて大きなガラス戸が付いた立派な家具です。用途はお客様の高額な洗濯物を保管するために設えてもらった特注品でした。

 

今みたいに重機はないので搬入と設置は人界作業です。そのときに制服姿で作業をしていたのが「服役」している人だったことを後で知りました。今はどうか判りませんが、父からの話では、大きさや、使う木材(樫)を指定して注文が出来たそうで、大人になって移動する機会があり、兄弟でいざ持ち上げようとしてみて判ったのはとんでもなく重いこと、そして数十年経過しているにもかかわらず何の狂いもなく当時のままの状態を維持していることでした。

 

その技術のたかさと、良い物を作るために一生懸命に作業をしてくれた訳ありの人々に驚かされるのです。そして時代も変わった今も「刑務所作業製品」は全国で色々な物が作られ、世に出てきています。今、実用品もありますが家具や工芸品等はもう芸術品、美術品と同じです。
よって販売価格も見合った価格になっていますが、審美眼を持った方にすれば破格に安いと思われるようです。

昭和30年代、子供の小遣いと欲望?

 

昭和30年から38年、下町の一般家庭で小学生を対象とすると駄菓子屋の商品価格が最低1円から、高い物で30円(子供ではかなり高額)買うことが出来た時代の話です。
私は、荒川区日暮里町(現西日暮里)の生まれです。日暮里駅近くには、今はなくなってしまった「駄菓子の問屋街」があり、子供ながらに憧れの場所で、少し冒険して足を運んだ場所でもありました。

 

自分が住んでいる町内の駄菓子屋には売っていない物が沢山あり、いつも「ほしい、ほしい」の気持ちが高鳴る夢の王国に見えました。この問屋のルール(バラ売りしない)など子供には判りませんが、子供なりの算数で一つあたりの「原価」を計算するのです。そして安いと感じるときでもあるのですが、同じ物を沢山買ってもしょうが無いと感じるときでもあります。

 

しかし年に一度だけ行動に移せるときがあるのです。それは、お正月。お年玉をもらい懐が潤ってお金があるときにだけ「大人買い」出来るのです。しかし、意気込んで正月明けに駄菓子問屋が開く頃に、目を付けていた「当たり物※クジ付」の物を買おうと店の人に買う旨を伝えると「子供は駄目」と断られてしまうのです。

 

そのことは大人になって判った「商売のルール」でした。クジになっていて、当たらないと良い物がもらえない。当たり前の仕組ですが、子供からすれば「中々当たらないクジ」を当たり含めて箱で買えば、当たりが黙って付いてくる。多少高くても、子供なりに「大当たり」を得る事が出来るのですから当たり前です。しかし、そんな事を無視して問屋が1年に1回しかこない子供に売っていたら、駄菓子屋が売れなくなってしまいます。

 

仕方なく、商品変更で「ガム」などの中に景品として「絵合わせカード」が入っているもので全部の「カード」が揃うと「景品」がもらえる今でもあるようなタイプの物です。ガムばかり「100個」位入った物で子供なりに「箱買い」するのです。そして、ここでも大人の世界を教えられるのです。意気揚々と箱買いしたガムを家に持ち帰り一つ一つ開けて「カード」を取り出して整理しながら全部揃うことを願いながら最後までむいたときに夢から覚めるのでした。

 

「100個」入っているのに同じような物ばかりで、必要なカードを全部揃えるに全体の1/3にも満たない種類しか揃わないことにガッカリです。夢破れ毎日、少しずつそのガムを食べ、子供なりにむなしさを感じながら過ごすのでした。この方法で後に、何人かで「共同出資?」して子供なりにかなりな量を買って再度挑戦してみたときがありましたが、結局、揃わないことを知った悔しさの再来でした。

 

色々な家庭事情もあるのですが月極で小遣いをもらっている子供は私の周りには、一人もいませんでした。私の家は、毎日「10円頂戴」の繰り返しで3回くらいまではもらえました。しかし、駄菓子屋で菓子を買えばすぐに無くなる。そして、小遣いが底を付いた頃の夕方に限って「紙芝居」、学校の近くに遊びに行くと「型粘土」、「あめ細工」のおじさんが来ているのです。しかし、親からこれ以上もらうことが出来ない。

 

計画的にお小遣いを使うことを学んだのです。そうです。すぐに使うのではなく「貯める」。
しかし、誘惑と欲求には勝てず長くは持たなかった今も変わらない子供の頃の私でした。

 

※日暮里の駄菓子問屋は2000年を過ぎた頃から「再開発」で徐々に立ち退き2003年には完全に消滅してしまいました。現在、新しくなった駅ビルの中で営業されている駄菓子の問屋さんがあります。

 

番外編

 

究極の子供ながらに覚えた物々交換により「物を得る方法」とは? 冬の夕方などに来る「おでん」、「石焼き芋」の屋台。この当時の屋台の燃料は「薪」です。悪知恵が働く私含め子供たちは、この時期を楽しみにしていました。それは、普段の遊んでいる所々で「廃材」を見つけては「秘密基地」と称していた場所に拾い集めてきた「廃材」をため込んでおくのです。貯めると言っても拾ってきての物ですので量はしれています。

 

そして屋台が来ると貯めておいた「廃材」を持って行き「おでん」の屋台のおじさんに「おでん」と交換してもらい、子供たちでしばしの食事会を開けていたのです。「焼き芋」の屋台のおじさんも同様に「焼き芋」をもらえるのでした。しかし、親にこのことが見つかりそれ以来出来なくなってしまいましたが、子供ながらに物流を実地で体験できた楽しき時代でした。

 

何故、こんなことを覚えたか? それは「懐かしき昭和の街景色」の「爆弾あられ」で書きましたが「お米」を持って行くとその何割かを「手数料」として手数料分のお米だけを取り除き残りの「お米」を「爆弾あられ」にしてくれるのでした。このことの応用で先の「物々交換」が出来たのでした。

終戦記念日、進駐軍と父の思い出

 

終戦記念日が近づくたびに思い出す父親の生き方、私の父親は終戦後から「洗濯屋」を営んでいました。根っからの「職人」で病で入院するまでアイロンを握り「手仕上げ」にこだわり仕事を続けていました。6人(男4人、女2人)の子供をもうけ私は一番下、そして生きていれば私の姉にあたる一人を幼い頃に失っています。

 

父はとても怖い存在でしたが、お客様には腰が折れ曲がるくらいに挨拶をする。このことは家族全員、幼い頃からうるさくと言うより出来なかったら「げんこつ」のご褒美がくるような家庭になっていました。そんな父ですが、色黒テレビが我が家に来た頃にテレビで戦争の記録映画が放映されると、戦争にまつわる色々な話をしてくれました。当時、私は8歳くらいの頃でした。

 

しかし、ここに子供ながらに疑問がいつも頭の中にわいてくるのです。それは、父は兵隊として戦争に行っていないこと。招集され「兵隊」として戦場に行かれた方たちからすれば「非国民」と言われるかもしれません。ある程度の歳になった私に、実際、終戦後には回りから陰口を相当言われていたと母親から聞かされていました。

 

前振りが抽象的になっていますが、ここからが本題の話になっていきます。何故、父は「兵隊」として徴用されなかったのかの疑問です。単純に「兵員」としての徴兵検査で「丙種」で兵隊にはなれなかった事実です。「身体上極めて・・・」となっていますが、身長が低いだけで何の問題もない体です。では何故に落とされたか不思議な所なのですが、何処にいたか? 栃木県にある「発電所」を見守る整備員として働いていたのです。

 

終戦後は「洗濯屋」ですが、戦争前の若い頃に男浪漫の外国航路の貨物船の「機関員」をしていて何年も世界中を回っていたことでした。そんな生き方が戦争が始まり、別の形で「技術者」として国内ですが影の力として働いていたです。何年も船の中で生活をする中で、当然ですが衣類の洗濯がつきまといます。そこで、器用だった父は乗船している仲間たちの衣類を綺麗にする「洗濯係」を請け負っていたそうです。

 

そんなことが終戦の後に生活の手段になるなどとは全く予想も付かなかった事だと思います。この技術は家族を支える職業として「洗濯屋」開業となるのですが、終戦後の何もかも失っている世の中で衣類にお金を払ってまで誰が出すでしょうか。ここに、誰も驚く度胸というか生きる力がそうさせたのでしょう。この話は大人になってから父が話していた事をやっと理解できた時でもありました。

 

父はお客獲得に「進駐軍」に営業をしに行ったのでした。ここのところは私の創造かもしれません。しかし、実際に私が3歳前後(昭和28年)の頃になりますが残留していたアメリカ、イギリスの軍人さんが直接、店に来ていましたから何らかの方法で繋がりが出来ていたのは「ランドリーボーイ」として将校の軍服を綺麗にする仕事の技術を評価され「帽子」から「軍服」、「ワイシャツ」、「靴下」までも綺麗に仕上ていました。故に、店に仕上げられ天井に吊してあるのは、ほとんどが「軍服」でした。

 

そして配達の時にうろ覚えの地域ですが王子か大塚のあたりにあった進駐軍の施設に連れられて行った記憶があります。若い頃に働いていた外国航路の経験で英語が少し話せたのが、全ての始まりとなり、きっかけとなったのでした。色々、お土産を持ってきてくれた人たちの中で、我が家で知り合った父方の叔母さんはイギリスの兵隊さんと結婚しイギリスへ渡ってしまいました。

 

私が一番下なのでよく言われていたこと「勉強も大切」だが、「何が技術を身につけろ」をしつこく言われていました。そして今、亡くなった父、母、の思い出と共に自身を振り返りこの年までどうだったのか回想するのですが、勉強はそっちのけでものにもならずでした。少し、父の系統を引き継いだとすれば「少しの器用」と些細な事でも人の役に立つような「徳を積む」事くらいです。しかしこの「得を積む」言う言葉は難しいですね。

 

終戦記念日間近で父の話を書きましたが、お役に立てるなどとても出来ません。だからこそ出来ることとして「昭和」の出来事でも残して置きたいと思い「いいもの にっぽん」を正式には1995年に立ち上げていました。途中、ノスタルジックエッセイとして出版プロジェクトで発行もされました。しかし、まだ現役で小さな会社を運営している最中で本当に「放置状態」ばかりでした。やっと、最終ゴール(自身の没)が近づき一応完成させるために全力投球でこれから進めて行くことに努力をしていきます。

 

保管されている実家が「疎遠」となる事象が発生し、最後にまとめて「昭和(父、母、進駐軍、下町の情景)」の写真をデジタル化する計画でいた集大成が出来なくなってしまったことに悔いが残ります。

毎月 8の付く日 開催 新井薬師

 

 

毎月 8の付く日

 

名称:新井薬師 八の市

場所:東京都中野区新井5-3-5 新井薬師梅照院

交通:西武新宿線 新井薬師前駅下車 徒歩5分
JR中央線 中野駅下車(北口) バス5分
関東バス 新井薬師前・北野神社 下車 徒歩1分

 

12月 世田谷 ボロ市

 

12月15日・16日

 

名称:世田谷 ボロ市

場所:東京都世田谷区世田谷1丁目付近 ボロ市通り

交通:世田谷線 世田谷駅

 

12月 薬研堀 歳の市

 

12月26日~28

 

名称:薬研堀 歳の市

場所:東京都中央区日本橋2-6-8 薬研堀不動院周辺

交通:都営浅草線 東日本橋駅 B3・B4出口 徒歩3分

 

12月 浅草 羽子板市

 

12月17日~19日

 

名称:浅草 羽子板市

場所:東京都台東区浅草2-3-1 浅草寺境内

交通:東武スカイツリーライン:浅草駅より徒歩5分
東京メトロ銀座線:浅草駅より徒歩5分
つくばエクスプレス:浅草駅より徒歩5分
都営地下鉄浅草線:浅草駅A4出口より徒歩5分

 

12月 浅草 ガサ市

 

12月14日~27日

 

名称:浅草 ガサ市

場所:東京都台東区浅草2-3-1 浅草寺境内

交通:東武スカイツリーライン:浅草駅より徒歩5分
東京メトロ銀座線:浅草駅より徒歩5分
つくばエクスプレス:浅草駅より徒歩5分
都営地下鉄浅草線:浅草駅A4出口より徒歩5分

 

12月 練馬 関のボロ市

 

 

12月9日・10日

 

名称:練馬 関のボロ市

場所:東京都練馬区関町北4-16-3 本立寺門前

交通:西武新宿線 武蔵関駅北口 下車 徒歩3分

 

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