職人

笹きり

 

ここ何年か和食ブーム?のせいかお寿司の話題が多く、皆様も相当の薀蓄をお持ちではないかと思いますが、同じお寿司でもあまり表舞台に出たことの無い別な意味での「技」も必要な寿司の脇役「青笹」。大上段に語るほどのものではないかもしれませんがお付き合いください。

 

昔の職人の世界では腕を磨くために一つの店で勤め上げることをせず、1,2年いる と次の店へと移り他の店の技術を覚えるを繰り返して「修行」と言うような形で自分の技術を磨いてから、店を開くか有名どころの板場に入りそれなりの地位で仕事に励むといったことが多くありました。 技術を磨くために他の店に移っても簡単には自分の位置を確立することは出来 ません。

 

腕(技術)の世界ですから年季など一切通用しません。当然、移ると きは今よりも技術の上の店を目指しますから、それなりにそこの店でも通用す る技術が付いていないと相手にもしてくれない厳しい世界です。 元の店の親方から紹介状を書いてもらったり、包丁捌きの実技試験のようなも ので技量を測られもした時代もあったようです。

 

試された技術が「笹きり」 「細工寿司」「飾切」(※:野菜細工、昔はこれも寿司職人が出来た)、この 「笹きり」の出来栄えで魚をおろし握らなくても年季と技術が判ると言われる くらいに難しい技術だそうです。青くて大きな笹の葉をまな板の上に置き、包丁を素早く巧みに動かすとあれよあれよというまに芸術作品のように切り抜かれた脇役の作品が出来上がりま す。あくまでも寿司を目でも美味しく食べて貰うための粋な演出と日本の奥 深い食のこだわりから生まれた技術。

 

包丁の切れ味が手入れを意味し、道具を大切にする心と美しさを追求する感性が伴わなければ出来ない技術と思います。笹きりを見せてくれいた知り合いの寿司職人さんは引退してしまいましたが、寿司の技術の伝承を一部鮨店(細 工鮨でも有名、すしの字が違うのがヒント?)で行っています。 ※寿司職人の国家資格の基準がこの鮨店から作られ、技と味を楽しめるお店 です。

鋳掛屋(いかけや)

 

生活に欠かせない鍋やヤカン等の台所で使用する道具、今はほとんどが家庭用に作られた物は使い捨て。確かに価格も安く手に入ることもあり「修理」など考えも及ばないと思いますが、昔は違っていました。 ほとんどの道具は修理をして使用していましたし、修理が可能なような材質で作られていて「鋳掛屋」と言う修理屋さんが「いかけぇー」と自転車で歩いていました。

 

いま、物を消費する時代からリサイクルと言う言葉と共に再利用しようとする時代に変貌しつつある。とてもいいことだとは思うのですが、物にもよりますが、個人的にはもっと長く使えるものを作るか補修を前提に代々使用できるなども必要ではと考えます。この長く使えるいいものを作っていたのが、今はどんどん減っている専業の職人でした。

 

だが、そんなことをしたら産業構造自体に歪が生じもっと不景気になるなんて言われそうで理想論になってしまうのかもしれませんが。話がややこしくなるのでこのくらいにして、昔なべや釜が生活の必需品でいた時代に台所用品や風呂場で使用する用具や風呂釜(銅製の釜)の修理屋さんがいました。

 

「鋳掛屋」さんと言う商売で、穴のあいてしまった鍋などを器用に銅などの板でつぎはぎをして直してしまう。見ていると手早く色々な道具でたたいたり、削ったりしながら鉛のようなものをバーナーで溶かし銅の板をあてがい修理すると「修理代」 を頂戴し、掛け声「いかけー・・・」の声と共に次のお客さんを探していくのです。

 

自転車の荷台に道具の箱を積んでハンドルやら自身の肩に色々な材料を担ぎなら来る人と、リヤカーを自転車を牽引してくる大掛かりないでたちで訪れ大物もこなすなど、また金物専門の人と木桶や風呂桶(昔は木の桶)なども一緒に修理する両方の職人さんがいた。後者の方が融通がきき注文も多かった。

 

筆者の町内には利用客も多かったのか定期的に修理に来ていたのを思い出す。 又、サービスで包丁なども研いでくれることもあり便利な存在でもあった。不思議な現象で修理したところが再度壊れることはなく鍋などは、完全に底が抜けて修理不可能になり交換となるくらいにしっかりとした修理技術を持っていた。

 

お櫃(おひつ)、炊いたご飯を保管しておく桧の入れ物なども、部分的に木を取り替えることも行ってくれた。だめになったところの部分を取り外し、新たにその部分と同じものの桧の材料を削りだしてあてがうのである。そして最後に銅の箍(たが)も締めなおしてくれて修理完了となる。 変わった修理では傘も修理してくれた。一部、傘専門の修理屋さんもいたのですが滅多にこないので、鋳掛屋さんに皆、頼んでいた。

 

傘も、修理してとことんまで使う。今のように壊れてもすぐには絶対に捨てない。壊れたものを保管しておき、鋳掛屋さんが来るとまとめて修理に出すのである。今ほど車の往来も無い時代だから道端で作業をしていても大丈夫、何ともおおらかな生活が出来た時代でしょうか。この職業も、消費することに美徳を感じる時代に入りだした頃、無くなってしまった職人の技術でもある

助職人

 

「助職人」この言葉は知っている方も少ないのではと思います。今風に言えば人材派遣業です。違うところは、専門職の職人であることと賃金も日払い、技量によって当然ですが賃金も違う。現在も、この制度を今風にアレンジして運営をされてることを発見し驚きました。ここではいつものごとく時間を戻しての話となります。昔は部門別に専門の斡旋屋がありました。

 

寿司屋、洗濯屋、日本料理屋と専業を得意とする業者があり、その中でまた人気のある職人は指名出来るようになっていたりしました。別に指名料などは無く賃金の手当が高いと言う違いです。ただ最低限の取り決めのようなものがありました。個人の例で書きますと実家が洗濯屋です。洗濯屋での職人さんの話を例としますと実家では毎週3日位は助職人が定期的に来ていました。

 

ここに来ていた職人さんはそれは見事な「いい仕事」をしてくれていました。私の父親がお気に入り の職人さんで、朝も規定時間前から来てくれて夜も仕事が片付かないと黙って残業をしてくれていました。この職人さんの賃金の算出が独特なのです。1日のワイシャツの仕上枚数がランク付けになっていました。かといって出来高払いではないのです。

 

今と違い総てアイロンの手仕上で綺麗にたたんで襟に紙の芯を入れて1枚です から大変です。 父親の心遣いで、賃金とは別に仕事が終わってから毎回、日本酒と夕飯を家族 みんなで取るのが職人さんとも家族とも楽しい時間でした。2年、3年と経過し気心が知れて来るとよく父親は、固定(従業員)で働かないかと盛んに口説いていましたが、頑として助職人で通すと言っていました。

 

仕事の質、勤勉な姿、今でもよく覚えていますが職人の心意気は素晴らしかったですね。家族の者が1人前の仕事が出来るようになり助職人を頼まなくなった後も、正月や何か節目には必ず実家に顔を出してくれ楽しい話をしてくれていました。自分の技術一つで渡り歩く助職人の世界、もっと書きしたためたいのですがま た何かの時に寿司職人の話を書いて見たいと思います。

競取師(せどりし)

 

競取(糴取)・背取ちょっと聴きなれない言葉ではと思います。れっきとした商売なのです何の商売かと申しますと「本屋」です。普通の本屋さんみたいに店舗を持たない古本屋さんです。古本屋さんと言っても形態がちょっと違う、ゆえに日常ではまず耳にすることはないでしょう。大まかに分けると競取と背取で読みは同じなのですが2つある。

 

正式な定義ではないかもしれませんが、筆者の分類(勝手ですが)では前者がここでお題として取り上げた職業としている競取師(せどりし)、後者は古物商などを営み古物の市などで出ている本の背表紙だけ(規則のようです)を見て背取り(仕 入れる)するの業界用語で使用されています。

 

では、競取師とはどんな商売かと申しますと基本的には古物商に入ります。違いは得意先から探して欲しいなどの指定された本を探し出し販売することと、全国の古本屋を回り「お宝本」を探し出し高く買い取ってくれるところに販売して利ざやを稼ぐといった商売です。相当の知識と人脈と情報を持っていないと、とてもできる商売ではありません。

 

昔から本業としている人も少なくほとんど知られることがない存在感のない商売でした。今となっては、実際どのくらいの人が存在していたのか知ることが出来ませんが、広辞苑には出ていますからそれなりの職業人として存在していた時代があると思います。直感と知識を持った職人技のちょっと変わった職業でした。私自身、商売にしているの人がいるのは知っていたが正式な職業名を知ったのが15年程前です。

ポチ袋

 

ぽち袋と言うものをご存知でしょうか?「ぽち」の意味は「小さいと」言うことのようで、関西方面では「祝儀」関東では「ぽち」の前に「これっ」が付いて「これっぽっち」と「ぽち」の間に小さな「っ」が入り、表現的には「これだ け?」と少ないことや小さいことを強調するように使用されていたようです。 この「ぽち」の後ろに「袋」の文字が付いたら、とても「粋」な性格を持った逸 品となりました。

 

簡単に言えば「御祝儀袋」です。粋人は花柳界で自分の存在を 表現するために、絵、色合い、仕組み(遊び心満点)、等に金銭を惜しまず競って作って馴染みの「芸妓」「幇間」「賄い衆」等に祝儀を入れて渡していたそう です。 中には、金箔を使用したものもあったようで祝儀として入っている金額より袋の方が価値を持った物もあったそうです。この辺が粋人の遊び心なのでしょうね。

 

後に、旦那衆の間で互いの「ぽち袋」を交換したりしてコレクションを始めた人も出始め、定期的な交換会などもあったそうです。つい何年か前までは、1枚1枚手作りで作っていました。紙の切り出しも型で抜き 絵柄も総て木版です。かれこれ20年も前ですが浅草で実際に作っている職人さんの所へお邪魔させていただき色々とお話を聞かせてもらいました。

 

帰り際、お土産にと幾つかいただいてきました。長い時間が経っているのに色落ちもせず しっかりとしています。これが職人の仕事と感じる私の宝物です。絵柄はシンプルですが、厚手の和紙で出来ていて手作りの温かさを感じるものです。※「ぽち袋」は今も販売されていますし小粋に使用すると印象付けには絶対の逸 品だと思います。

左官屋

 

左官屋さんの話、左官屋さんは現在も現業でご商売をされていますが、非常に少なく(高級な部類に)なった、竹組み、漆喰、土壁を手と鏝一つで作 り上げる左官職人、今は家を建てるときに使用する壁の部材は色々と綺麗で便 利な部材が沢山あるので、鏝を振るっている姿などほとんど見ることは出来なくなってしまいました。

 

いつものごとく、時間を少し戻して見ましょう。新しく家を建てるときに感じ るなんとも落ち着くほのかな香りがありました。木材と一緒に藁(わら)と下 塗り用の壁材の湿り気を帯びた土の香りが必ず言っていいほど漂っていました。家の骨組みが出来て外壁の下地の板が打ち貼られ、屋根の部分に瓦を葺く作業 が始まると左官屋さんの出番です。

 

一般の木造住宅の場合は外壁からの壁塗り 作業(外壁はセメント)で、盾のような取っ手の付いた手作り壁材を乗せるための道具と鏝を持ち不安定な足場の上で手際よく鏝の腹の部分に壁材を取り分 け押し付けるように塗りこんでいきます。 この作業、見ているととても簡単に見えるのですが、実際に作業をさせてもら うと同じようにやっても全然と言っていいほど材料が壁に付きません。※以前、実家の立替工事のときに実際に体験作業を1日させてもらいました。

 

手首と体のリズムを感じ取れば出来るよと左官屋の頭(かしら)に言われたのですが、付け焼刃では無理がありすぎました。屋内の壁材は赤土の下地と漆喰で仕上げます。畳一枚分くらいの箱の上に丸太を渡しその上に取っ手のついた大きなふるいを乗せ手際よく土を入れふるいにかけます。その中に、藁(わら)を刻んで入れ混ぜ合わせていきます。

 

この作業と同時に別の職人は壁の下地となる部分を細く裂いた竹を格子状に組み上げていきます。一方の土をこねる職人は土と藁を良く混ぜ合わせてから水を加えて練り上げます。ムラのないように手早く練り上げ、何度か盾のような道具の台に鏝で取 り分け試し塗りして固さを調整してからバケツで取り分けして本塗りを行います。見ていてもいえぬリズムで塗り上げていきます。綺麗に平らによく塗れる なと思うくらいに感覚が鋭いです。

 

幾日かたって下塗りが乾いてから、仕上げの漆喰を塗り上げますがこのときには年季の入った職人しか作業をしません。材料はきめの細かな材料を薄く筋のつかないようにそれは見事に塗り上げます。作業も真剣そのもの、経験と感で真平らに塗り上げる技術、今はもうほとんど見られなくなってしまった技術と光景これも時代の流れでしょうか。左官屋さんの技術の中にもう一つ特殊技能の芸術「鏝絵」というものもありますが、これは別の機会に書きたいと思います。

下町の匠 「職人」

 

「職人」と呼ばれる言葉、しかし今は洋風に「マイスター」或いは「なんとか技能士」等々、変化を遂げている。ここでは肩書きではなくあくまでも下町に存在していた「手職」の職人さんの話を書いています。

 

時代と共に変化することはとても良いことです。そして時代と共により高度な環境を導入し新たな「職人」の境地を構築して言っている方たちが多く存在し実際に私自身も、その洗練された技術を目の当たりにし驚いています。

 

しかし、個々ではあくまでも「昭和30年」当時の話としてイメージしていただければと思います。