行商

背負子の行商人

 

今の時代では姿を消してしまった物流の原点ともいえる「産地直送」も兼ねた人力による「背負子」を使い何十キロにも及ぶ重量の「野菜」、「果物」、「卵」、「米」、「餅」、「菓子類」等々、下町の界隈を一軒一軒立ち寄り「行商」をする「おばちゃん」、たまに「おじさん」も出現する。荷物を背負っている人の背丈くらいはある色々な食べ物の詰まった箱や風呂敷、子供ながらに立ち寄ってくれるのを楽しみに待っていた。

 

それは、親たちも同様だった。理由は、新鮮であることと近所では手に入れることが出来ない、珍しい食べ物で、価格も安く売ってくれるためでした。同じ町内でも何人かの「背負子」のおばさんやおじさんが回っていて、それぞれ特徴があったことを覚えている。そして、持ってくる量に限りがあるため、最後の方にはほとんど無くなってしまう。
そのために、いかに常連として買ってくれるのかが「背負子」の人たちへの信頼関係を結ぶことによる優先度合いになるのでした。

 

持っていても「注文品だから駄目」で断る。しかし「常連さん」の所へは売ってくれる。私の家は家族が多いので、結構な量をいつも買うことから「常連さん」の位置づけになっていたようでした。だから、色々な行商の人が立ち寄ってくれました。少し知識が付いて感じた疑問、商品の販売価格に「定価?」がない。昔流の「相対商売」悪く言うと「人の顔をみて価格を決める」こんなやりとりが普通なのですが、決して汚らしくない。

 

むしろ「粋」な情景に見える面白い商売も特徴でした。「餅菓子」は、今普通に手に入りますが正月以外手に入らない「お餅」等は子供にしてみれば楽しみでした。あと「草餅」や「大福」と言った生菓子、近所の和菓子屋さんで買うことのできる物もあるのですが、自然で飾り気のない田舎の素朴な「和菓子」はとてもおいしかったのと、量が限られた商品で買えるのは「常連」の特権でもありました。

 

この行商人の中で特に印象に残っているのが「卵屋さん」のおじさん、背の低いおじさんで、後に当時持っていた量を換算してみたら背中に5箱、両手に1箱づつ持って総重量「70キログラム」はあった勘定です。とにかく「新鮮」そのものです。朝方産み落とされた卵をそのまま持ってくるのです。このおじさんの人気はすごく、私の家は大体昼頃に現れ最後になることが多かったのですが、残っている「卵」を全部買い上げるので親たちと世間話をしながら、かなり「おまけ」をしてくれていたようです。(当時は今のような緩衝材がないので卵は籾殻の中でぶつからないようにいくつかに仕切られ埋まっていた)

 

そして、しばらく休憩をして再度午後の販売のために茨城の自宅へ戻り午後からの販売のために引き返すのです。このおじさんは私が中学生になる頃まで町内へ行商を続けていましたから、すごいバイタリティーに感心していました。昭和40年のころには、私の町内では「背負子」で行商する人はほとんど見かけなくなってしまいました。

粘土かた屋

 

色々なことが切 り替わる季節、春、どことなく現れ、後少しのところで消えていく不思議な商 売、正式な名称は判らないのですが?「粘土屋」と言っていました。ご存知の方も少ないかもしれませんが、風の噂で今も健在と聞いています。何かと申しますと、まず、粘土(粘土質の泥)と色のついた粉のようなものを 「おじさん」から購入します。そのときに小さな素焼きの型といわれるものを一つ選んでもらうことが出来ます。この型に粘土を詰め型抜きし色のついた粉で着色し「作品!!」に仕上げていくのです。

 

出来上がるとおじさんのところへ持っていき「評価」をしてもらう。1点から10点までの10段階評価でボール紙で出来た点数の書いてあるカードをもらうのです。これを集めて「展示」されている大きな「型」と交換してもらうことが出来る仕組みなのです。その評価は大体決まっていて大きな点数はもらえないのです。大きな点数をもらうためには「色」の粉でも高い値段の粉を何色か使用しないともらえないようになっています。

 

それでも何とか小さな点数でも集めようと「作品」を持っていくのです。追加の粘土を買ったりしても、こちらの方が安いので子供なりの知恵でした。ところが点数も集まり大きな「型」を交換できる日が近づくと、いつもの場所には、もうこないのです。5日ほど同じ位置で開業しているのに、タイミングを見ていなくなる。せっかく集めた点数もすべて紙くずとなる。どこが「横丁の職人」かと思われるか?

 

見本に飾ってある「作品」 はそれは見事でした。色も多く使っているのですが配色と表面の滑らかさなどは、とても粘土とは思えません。その日、店じまいするときに、総て飾ってあるものを壊して捨てて行くのです。ゆえに、まがい物ではありません。このような職人商売、何か憎めない想いでです。

金魚屋

 

毎日が暑い、夏だから暑い…、金魚屋がお題、金魚屋といっても「はて?」 と感じる方のために簡単に説明をいたしますと、現在では「熱帯魚店」がほんの少しだけ金魚を置いている程度か、縁日の金魚すくいくらいだと想います。いつものごとく、時を35年ほどさかのぼりますと、この時代まだ金魚屋として 独立していた時代です。今ほど土地も窮屈でない時代ですから養魚場のように コンクリートでいくつにも仕切りを作り水を張った生簀ごとに数え切れないほどの色々な金魚が泳いでいました。

 

この金魚屋さんのどこに職人の話と結びつくとこがあるかと申しますと、金魚の話ではなく金魚を引き立たせる脇役たちの話なのです。皆さんご存知の「風鈴」も風鈴屋(縁日のは別)さんはいませんでした。風鈴も金魚屋、もうひとつあったのが風鈴や金魚鉢を引き立たせる小枝(桧葉の小枝)で作った「造形物」。やっと本題のところにきた!!小枝を色々な形状にまとめて針金で組み合わせて灯篭、提灯、帆掛舟、鶴、亀 色々な形にくみ上げ風鈴などを下げたりしたものや、極めつけは箱庭のような 金魚鉢を置く日本庭園の形をしたものでした。

 

この箱庭には、ビロードのようなコケなども貼り付けてあり実にすばらしい物 でした。 この、造形物すべてに水を打ち常に湿気を持たせてあり、今考えると水、金魚 風鈴の音、色合い、造形などで合理的に涼を演出していたことに関心します。ただし、価格は高かったですね。風鈴や金魚が200~300円で一番安い菱形の物に風鈴をつけると800円位になったと思います。手間隙掛けた技巧の労力とリヤカーを引いていることを考えたら高いものではなかったのかも知れません。私の家の経済力が物差しですから!? ※この時代、うどん一杯がまだ150円位だった。

 

売り方はリヤカーに金魚の水槽、色々なガラス製の金魚鉢、紹介した作り物と色とりどりの風鈴の音と共に「きんぎょーぇーきんぎょーぇー」の声でどちらが先か夏がやってくる。今でも、金魚屋として現業でリヤカーを引いていらっしゃ方がいると聞いてお りますが、どなたかご存知でしょうか。

定斎屋(じょさいや)※薬売り

 

定斎屋この名前からは何の商売かは連想できない名称、薬屋、それも夏場だけの薬売りです。昭和30年初頭には消えてしまった懐かしの職人(薬屋) 音で何屋が来たかわかる時代、独特の音がありました。 いでたちは、半纏と黒のパッチ(肌にぴたっと合った股引のようなもの)を身 に付け、地下足袋で天秤棒の両端に小ぶりの箪笥(タンス)のような引き出し が沢山付いたものを取り付け、肩で担いでリズムを取りながら歩いてきました。

 

このときに、引出しの取っ手(鐶⇒カン)のところが揺れて鈍い「ダン・ダン」 と歩いてくるリズムに合わせて音が出ていますのですぐにそれと判るわけです。 薬屋と言っても、漢方薬のようなもので食あたりや食欲増進に効く薬を専門に 販売していたようです。 この時期には皆さんご存知の「富山の薬売り」が出てきましたので私の住んで いた下町にもある時期から来なくなってしまいました。

 

参考資料でも確認したのですが「夏」だけの販売しかしないようで、他の時期 には確かに見たことが無かったように思えます。富山の薬売りが出ましたので追加情報、定斎屋は夏しか来ないけど富山の薬売 りは毎月御用聞きに来る、そこで、商売のうまさが「子供のおまけ」今で言う ところのプレミアムグッズ?と、言っても「製薬会社の名前の入った紙風船」 それも丸ではなくサイコロのような四角形の紙風船、買った額に応じて数が増 える、これが欲しくて必要のない物まで親に買わせた想い出がある。先の定斎屋、子供の心をつかみそこね富山の薬売りに商いの方法で負けたの かもしれません。別の機会に「富山の薬売り商法」を紹介したいと思います。

羅宇屋(らうや)

 

煙草が日本に入ってから長い長い間愛煙家の必需品の煙管(キセル)。煙草と言えば紙巻煙草が当たり前の時代となり見かけることも無くなってしまった煙管専門の修理と掃除、販売を専門にしていた職人仕事の羅宇屋。

 

羅宇屋と書いてらうや(ラオ屋とも呼んだ)と読みます。これって何と思われる方がとても多いと感 じますので、やはりご説明いたしましょう。最初は煙管(キセル)の話から、時代劇などでも煙草を吸うシーンがあると長いパイプのようなものの先に、ちょいと丸めた刻み煙草を詰めて火を付け一服と言った具合。

 

まだ紙巻煙草など無い時代ですからあたりまえですが、ヘビースモーカーには面倒なものかもしれません。このキセルの構造は火皿・雁首(ガンクビ)・羅宇 (ラオ)・吸口と名称があり、分解すると3つの部品(真鍮・竹・真鍮の順)となる。普段、使用していると煙草にはヤニがつき物ですから管の中がヤニで詰 まって吸い心地が悪くなったり、竹の部分がわれたりしてひどくなると使用できなくなってしまう。 ここに登場するのが「ラオ屋」です。

 

要するに、煙管(キセル)の修理と清掃 が専門の職人なのです。特徴は「装束」と「ピーー」と音のする小さなリヤカーを引いてくるため、離れていてもすぐにそれとわかる。頭には菅笠(すげがさ)をかぶり、黒のパッチ(肌にぴたっと合った股引のようなもの)を身に付け、小さな前掛けをかけ地下足袋でリヤカーを引いてくる。

 

ピーーと音のする原理は、ラオ竹を加工するために小さなボイラーのようなものを稼動させ、蒸気が出ている煙突に笛を付け蒸気の圧力を利用しているためです。何とも合理的で粋な宣伝ですが、そばで聞くととても甲高く耳障りでした。ラオ竹とはラオス産の竹でキセルに向いていたようです。お客さんがキセルを持っていくとその場で預かり、一時間程度で新品同様にしてくれます。

 

その作業をそばで見ていると、いとも簡単に分解してしまう手つ きのよさはプロの職人。掃除だけの場合と竹の交換、金具の交換など色々と対応していました。工賃はいくらだったかは忘れましが、普段のものですのでそんなには高くは無かったような記憶があります。 また、リヤカーには道具箱のほかショーケースもあり彫り物がしてあるような 高価なものから一般の価格の商品までが数は少ないですが陳列してありました。

 

時代の変化とともにキセルを使用する人も少なくなり羅宇屋さんも見かけなく なりました。唯一、数年前まで浅草雷門のそばでがんばっていた羅宇屋を営んでいた方もいなくなり消滅したのでしょう。

爆弾あられ

 

秋と言えば収穫の秋。このころになると「新米」の話題と「食」に関わる話題でにぎわってきますが、いつものごとく、ずーっと昔の話、秋風が吹くころになると路地裏の空き地めざし、おじさんはリヤカーを引いてやってくるのです。その姿は子供ながらに「戦車」見えかっこよかった(注:好戦家ではありません)。なぜ、戦車に見えるかと言うと荷台の真ん中に鎮座した大砲のような物がまさしく爆弾あられを作る機械で大砲のように見えたからなのです。

 

その機 械と大きな網(針金の網で出来ている)と薪、材料や色々のものが積まれていた。 その、あられの購入方法が変わっている。「物々交換」です。えー、と、思わ れる方もいらっしゃるかもしれませんが、私の住んでいた下町にはあったのです。昭和35年前後まで本当です。その中で典型は「爆弾あられ」でした。

 

※色々呼び名があるようですがここでは「爆弾あられ」と呼びます。
※別称:どん(かなり古い)、ぽん菓子(新しい)、パッカン(新しい) 、こめはぜ(商品名?)

 

話があちらこちらとなりますが「爆弾あられ」とはなにかを簡単に説明する と前述説明の大砲のような圧力釜でお米を煎り、ある時間(圧力計など無い) になる、筒の先に網の筒をつけて釜の安全弁を専用の金具で外すと大きな音で「ドン」と爆発して一気に網の中に「爆弾あられ」となったお米の形をしたまますごい勢いで飛んでいく。驚く言うよりもなんともいえぬ爽快感がある。そして、すこし遅れて香ばしい甘い香りが漂ってくる。

 

出来立てを口に頬張ると少し甘く味付けしたあられ菓子が口一杯に広がり、最高の楽しみでした。今はスーパー等のお菓子コー ナーや駄菓子屋さんで販売しています。 物々交換の話、爆弾あられの原材料はお米です。出来た物を買うことも出来たのですが、直接、お米をもって行くとおじさんは秤で計量してその何割かを「手間賃」に取り、残りをあられに加工してくれるのです。味付けは「サッカ リン(人口甘味料)」耳掻き半分くらいで「甘く」味付けでき、その時代ではとても便利な添加物でした。

 

※後、人口甘味料は「チクロ」に変わり、今は全面的に使用禁止になってるようです。 最近、復活してイベントなどでも実演を行っているようです。これに水あめで 加工したもの「おこし」だったり、そのままを型にはめて再度焼いたものが「ぽん煎餅」だったりで楽しいお菓子です。どこに職人が出てくるって!?子供の目で見て憧れの「職業人」だったのです。

物売り・行商

 

昭和30年代の下町では「行商人」と呼ばれる商売人が数多くいた。この時代には商店街も多く存在し、物流もそれなりに小型のトラックなども輸送手段として動き出していたのだが、下町の路地を自転車、或いは徒歩で大きな荷物と一緒に移動しながら軒下商売の形で物を売ったり、或いは修理を請け負いその場で直してくれる。

 

本当にのんびりとした「流通経済」などと難しい考えはなく、必要としてくれるお客を捜し求め移動していた。