駄菓子

昭和に生まれた「文化フライ」のお話

 

「文化フライ」縁日でも限られた存在で必ず出ているとは限らなかった当時の「スナック菓子」のような食べ物です。最近、ネットではレシピも紹介されたり足立区では「足立区発祥ローカルフード」になっていたりで結構な情報が出ています。

 

※「文化フライ」:小麦粉を主材料に水あめ、塩を入れて練り上げてから薄くのばし、小判型の型抜きで抜いた後、薄く溶いたバッター液(小麦粉を水で溶いた物)に浸し、細かいパン粉をまぶし油で揚げ、、串にさし特性ソース(ウスターソース)に浸した串刺しのフライ。

 

只々、個人的に気になっていたのが「考案」、「販売」が誰々と紹介されているのは良いのですが、他で販売されてている同名の「文化フライ」を「偽物」、「真似物」として書かれていることに、少し気になってしょうが無くあくまでも個人的な思い出として少し書きたいなと思い勝手に書いております。

 

気になったのが「レシピ※配合、調理」について公開されていた情報を見て、私がよく買い食いをしていた「文化フライ」とは違うことが気になりました。違うが為に時勢からすれば「偽物」お部類に入るかも知れません。しかし、食べておいしければそれで十分だと思うのです。
食べ物のレシピには占有権や独占権はありません。形が違っても良いではありませんか?

 

私の食べていた「文化フライ」は「形」も「販売方法」も「ウスターソース」、そして簡単なルーレットのようにくるくる回る針が付いた「クジ」も全く同じ、当たれば最高「3本」もらえる。そして何が違うかは「魚粉」が入っていたことが、現在紹介されている「レシピ」の大きな違いだと思います。

 

私、若い頃「12年間」洋食の調理人を行っておりました。子供の頃から「物作り」にはまっており、料理も子供ながらに創作?を行っていました。この「文化フライ」も縁日には早朝から出かけて「支度、仕込」している所を見るのが何よりの縁日の楽しみの一つとしていましたので食べ物は特に気になる存在でした。

 

「文化フライ」は子供ながらに作れるのではと材料が何なのか観察しいました。その中で袋の文字に「魚粉」の文字があったのと、おばさんが大きなボウルに材料を入れてかき混ぜるとこも、邪魔にならないところから観察していました。この「魚粉」を配合していたのは、後に気がついたこと「魚肉ソーセージ」の感覚で当時、おばちゃんの「アレンジ」だったのだと思ったのです。

 

後年、あるときふとしたことから管理している会社に勤めいている子が、なんと「文化フライ」を買ってきてくれたのです。驚きとともに早速「レンジ」で暖めて食べました。口の中に広がるなつかしさ。しかし、揚げたての香ばしさは少し物足りなかったですが何十年ぶりかで口に出来たことと、若い人たちに普段から昔の話ばかりしていた事の一部を覚えていてくれたことに感謝しました。

 

買ってきた場所を訪ねると「北千住のお閻魔様」の縁日に出ていたとのことでした。「お閻魔様」はここでも取り上げていますが、私が行ったときにもう無かった。先に取り上げた最近のネットでの情報では、今も販売しているようですが一部の記事に「偽物」と表現されてたのが残念です。色々あっても良いじゃないですか。そのうち「文化フライ」が「商標登録」されるなんてこともあるのかな。なんとも世知辛い世の中になってしまったでしょうか。

年寄りの愚痴です!!

昭和30年代、子供の小遣いと欲望?

 

昭和30年から38年、下町の一般家庭で小学生を対象とすると駄菓子屋の商品価格が最低1円から、高い物で30円(子供ではかなり高額)買うことが出来た時代の話です。
私は、荒川区日暮里町(現西日暮里)の生まれです。日暮里駅近くには、今はなくなってしまった「駄菓子の問屋街」があり、子供ながらに憧れの場所で、少し冒険して足を運んだ場所でもありました。

 

自分が住んでいる町内の駄菓子屋には売っていない物が沢山あり、いつも「ほしい、ほしい」の気持ちが高鳴る夢の王国に見えました。この問屋のルール(バラ売りしない)など子供には判りませんが、子供なりの算数で一つあたりの「原価」を計算するのです。そして安いと感じるときでもあるのですが、同じ物を沢山買ってもしょうが無いと感じるときでもあります。

 

しかし年に一度だけ行動に移せるときがあるのです。それは、お正月。お年玉をもらい懐が潤ってお金があるときにだけ「大人買い」出来るのです。しかし、意気込んで正月明けに駄菓子問屋が開く頃に、目を付けていた「当たり物※クジ付」の物を買おうと店の人に買う旨を伝えると「子供は駄目」と断られてしまうのです。

 

そのことは大人になって判った「商売のルール」でした。クジになっていて、当たらないと良い物がもらえない。当たり前の仕組ですが、子供からすれば「中々当たらないクジ」を当たり含めて箱で買えば、当たりが黙って付いてくる。多少高くても、子供なりに「大当たり」を得る事が出来るのですから当たり前です。しかし、そんな事を無視して問屋が1年に1回しかこない子供に売っていたら、駄菓子屋が売れなくなってしまいます。

 

仕方なく、商品変更で「ガム」などの中に景品として「絵合わせカード」が入っているもので全部の「カード」が揃うと「景品」がもらえる今でもあるようなタイプの物です。ガムばかり「100個」位入った物で子供なりに「箱買い」するのです。そして、ここでも大人の世界を教えられるのです。意気揚々と箱買いしたガムを家に持ち帰り一つ一つ開けて「カード」を取り出して整理しながら全部揃うことを願いながら最後までむいたときに夢から覚めるのでした。

 

「100個」入っているのに同じような物ばかりで、必要なカードを全部揃えるに全体の1/3にも満たない種類しか揃わないことにガッカリです。夢破れ毎日、少しずつそのガムを食べ、子供なりにむなしさを感じながら過ごすのでした。この方法で後に、何人かで「共同出資?」して子供なりにかなりな量を買って再度挑戦してみたときがありましたが、結局、揃わないことを知った悔しさの再来でした。

 

色々な家庭事情もあるのですが月極で小遣いをもらっている子供は私の周りには、一人もいませんでした。私の家は、毎日「10円頂戴」の繰り返しで3回くらいまではもらえました。しかし、駄菓子屋で菓子を買えばすぐに無くなる。そして、小遣いが底を付いた頃の夕方に限って「紙芝居」、学校の近くに遊びに行くと「型粘土」、「あめ細工」のおじさんが来ているのです。しかし、親からこれ以上もらうことが出来ない。

 

計画的にお小遣いを使うことを学んだのです。そうです。すぐに使うのではなく「貯める」。
しかし、誘惑と欲求には勝てず長くは持たなかった今も変わらない子供の頃の私でした。

 

※日暮里の駄菓子問屋は2000年を過ぎた頃から「再開発」で徐々に立ち退き2003年には完全に消滅してしまいました。現在、新しくなった駅ビルの中で営業されている駄菓子の問屋さんがあります。

 

番外編

 

究極の子供ながらに覚えた物々交換により「物を得る方法」とは? 冬の夕方などに来る「おでん」、「石焼き芋」の屋台。この当時の屋台の燃料は「薪」です。悪知恵が働く私含め子供たちは、この時期を楽しみにしていました。それは、普段の遊んでいる所々で「廃材」を見つけては「秘密基地」と称していた場所に拾い集めてきた「廃材」をため込んでおくのです。貯めると言っても拾ってきての物ですので量はしれています。

 

そして屋台が来ると貯めておいた「廃材」を持って行き「おでん」の屋台のおじさんに「おでん」と交換してもらい、子供たちでしばしの食事会を開けていたのです。「焼き芋」の屋台のおじさんも同様に「焼き芋」をもらえるのでした。しかし、親にこのことが見つかりそれ以来出来なくなってしまいましたが、子供ながらに物流を実地で体験できた楽しき時代でした。

 

何故、こんなことを覚えたか? それは「懐かしき昭和の街景色」の「爆弾あられ」で書きましたが「お米」を持って行くとその何割かを「手数料」として手数料分のお米だけを取り除き残りの「お米」を「爆弾あられ」にしてくれるのでした。このことの応用で先の「物々交換」が出来たのでした。

ボルトの爆弾?

 

駄菓子やで販売されていた玩具で木製で羽もついていた「ロケット」のような玩具で、先端の所に金で出来ているキャップのようなフタが輪ゴムで本体の所に引っかかり止められている。当時「平玉」と呼ばれていた「火薬」の入っている紙製の花火の部類になる物で、競技で「スタート」の合図に使われる「火薬」の子供版です。当時、同様のもので「巻玉」と呼んでいたロール状に巻いてある火薬で、ブリキで出来ている小さな玩具のピストルに入れて引き金を引くと「パン」と音の出る玩具に使われた物です。

 

この「平玉」の方は、多少火薬の量が多く音も大きな音がします。この平玉が使える単発の玩具の「拳銃」もありましたが、子供はあまり興味を示さず持っている子供はほとんどいなかったのですが、何故か「ロケット」のほうが遊びの対象になっていました。金属のキャップの間に「平玉」を一つ挟んで高く投げ上げると金属のキャップの部分を下に落ちてくる。そして地面にぶつかると「平玉」が爆発して「バン」と大きな音と共に跳ね上がる。

 

拳銃のように、ただ音がするだけの物と違い楽しめたのが影響していたと思います。しかし、木製ですので何回か使っていると壊れる。コレが欠点でした。そこで誰が考えたか大きな「ボルト」と「ナット」を使った「爆弾」と呼んでいた玩具がはやりました。構造はいたって簡単、まずボルトをナットの真ん中部分までにねじ込み、ナットの中に「平玉」を入れ、今度は反対側からボルトを締め込んでいくのですが、締め加減が大切で緩いと「爆発」しない。

 

閉めすぎると手で持っていて「暴発」する。今考えると結構危険な玩具でしたが、子供なりにコツをつかむと丈夫な玩具になっていたのは確かでした。このボルトの爆弾をロケット同様に上に向けて投げて落下させる。うまくどちらかのボルトの頭の部分から落ちると、木製のロケットよりを大きなと跳ね上がる高さも、ひときわ高く上がるのが特徴でした。大人になり色々な知識を身につける中、この爆弾の原理に気がついたことがありました。

 

爆発性の「火薬」に「圧力」を掛けると「爆発エネルギー」がとんでもない比率で増していくとを・・・、当時はそんな事は全く判りませんので平気で「ボルト」を締め付けていて「暴発」させたことを・・・。

木製コマ

 

昭和30年当時、駄菓子屋で販売されていた「木製のコマ」は何種類かありました。大きなサイズの芯までが「木製」で出来ていてカラフルな色合いのコマで重さもあり、どっしりとした感じでしたが、子供の間ではあまり遊びの対象にはしていませんでした。子供の遊びの対象になるコマは、芯が鉄で出来ている少し小ぶりのタイプが対象のコマでそんなに重くなく、適度な重さと大きさでで好まれて使用していました。

 

他には、小ぶりの指先でつまんで回すタイプのコマで小さな土俵を作り回る長さを競ったり、ベーゴマのように「けんか」させて勝敗を競う遊びもありました。ここで紹介するのは、遊ぶための「技」を持っていないと遊ぶことの出来ない、先に紹介をした「芯が鉄のタイプの木製コマ」でこのコマを、回して手に乗せられなければ「コマを手に乗せた鬼ごっこ」の仲間には入れてもらえない。故に必死に練習をしなければならない技術が伴っていないと仲間に入れてもらえない遊びでした。

 

紐の巻き方から、持ち方、手首の返し方、手のひらに戻す為のタイミングと力加減、等々、子供同士で伝承されてきた知恵と技術でした。この技術はさらに発展し新しい「技」として、手に乗せるだけにとどまらず曲芸師のごとく「水車」、「ケーブルカー」、「滝のぼり」、等の「技」を子供ながらに習得していったのでした。これらのわざと平行して、いかに長く回せるように出来るかもコマに改良を加えるのでした。

 

改良と言っても「芯」の部分を砥石で研いで「中心」を正確に整えるだけなのですが、コマを回したときの微妙なブレを見分ける感覚も身につけていなければなりません。失敗して地面に落とそうものならもう大変でした。すぐに具合を見るためベニヤの板の上で回して状況を見、異常を感じればすぐに補正を掛け、それはもう大切に扱っていました。
ちなみに私、孫たちのコマを手に乗せることはまだ出来ました!!

 

※「水車」とは、紐を巻いたコマを地面に向け、真下に投げ途中でコマを引き上げ、そのときに紐も引き上げられるので、其の紐を方に掛け、そこへコマをの鉄芯を落としてコマが横向きに状態で回す事が出来る技です。

 

※「ケーブルカー」とは、コマを手に乗せて、紐の片側を手に持ち手に乗せてあるコマを紐に這わせて反対の手の方に移動させる技です。

 

※「滝登り」とは「水車」で横向きに回っているコマの紐を方から外して片方の手で少し力を加えてピンと張ると、上の方にコマが登っていく技でかなり高度な技です。

缶下駄(空缶で作った下駄)

 

誰の家にも転がっている中身のない「缶」も色々な遊びの材料となっていました。別途書いた「カンテラ※簡易な明かり」でも缶からの話をしましたが、子供に取って物を作るための材料でした。この缶を利用して「缶下駄」ですが「ポックリ」とも呼んでしました。
加工も構造も簡単、缶の縁に対照的に1個ずつ穴太あけて自分の持ちやすい高さになるように紐をつかめるように輪っかにして2カ所の穴に止めるだけ、そして同じ物をもう一つ作り足を乗せて、交互に紐を引っ張り支えながら歩くだけ。

 

たったこれだけですが、缶下駄はいて「鬼ごっこ」したり「徒競走」のような競争もやりました。良いところは壊れても気にならない。すぐに作り直せる。材料は苦労しない。良いことずくめです。しかし、当時、何故に捨てずに各家庭で「缶」を残しておいたのか?
大人も色々な容器として転用をしていました。我が家は「釘」の入れ物と洗濯屋なので洗剤をすくう容器の代用でも使っていました。

 

同様に他所では、色紙を貼り付け綺麗に飾ったペン入れや小物入れにもして利用してきた時代です。そして最後の行き場は、他の鉄くずと一緒に「廃品回収」に出す。ここまでで「缶」の役目は終わりとなります。今のように「リサイクル」の考えはまだありませんでしたが、何でも大切にする心が普通に皆持っていたような気がします。

輪ゴム鉄砲

 

 

当時は玩具など簡単には買ってもらえません。常に創意工夫の考えで身近にある物を、いかに遊べる道具にするかを子供ながら常に考えていました。その中でも身近にある「輪ゴム」と「割り箸」、この組合せは色々な物を作り出せる万能の材料でした。その中でも、打ち合いしても危なくない「輪ゴム鉄砲」はやはりブームになりました。

 

打ち合いもさることながら、的を撃つ「標的射撃」もやりました。この「輪ゴム鉄砲」も改良版として「鉄砲」ではなく「ライフル」もどきを作ったりもしました。板きれをライフルの銃床(肩当て部分)にのこぎりで切り出して、銃身の部分は棒きれを繋げた少しごっつい感じの大物です。しかし、飛ばすのは「輪ゴム」なんともです。輪ゴムが引っ張ったときに伸びる距離をわきまえて作らないと遊べません。

 

多く作ってしまったときは輪ゴムを2本繋げて使用するなど、猿知恵も働かせ想像力豊かに色々な状況を想定して皆「なりきる」ことが重要な他愛のない玩具であり、遊び方でした。
変わり種は「輪ゴムのタンク?」、「輪ゴム」と「空の糸巻き」、「ローソク」、「割り箸」で、輪ゴムの動力で動く「タンク」や「硬い紙」と「輪ゴム」で高く放り投げると「パチン」と音の出る玩具も手作りでした。

 

とにかく身近にある材料で、本当に色々作りましたし考えました。そしてとにかく勉強そっちのけでよく遊びました。

ホッピング

 

一時のブームに終わった「ホッピング」、町内で持っていない子供はいないくらいに誰かしらは遊んでいた。バネで飛びはねる行為は子供にすれば夢のような心地よさを感じていた。
しかしあの構造はよく考えた物だと思う。とにかくシンプルで耐久性もある程度あるので、よほどの無理をしないか、想定されていたであろう重量制限を遙かに超える負荷を掛けない限りは壊れることは少なかったように思う。

 

子供なのでそのままでは遊ばない。飛び跳ねて軸を回転させるなど基本中の基本、「ホッピング」に乗りながら「石蹴り」、少し危険な高い所からのジャンプ、しかし、コレをやると急所の肝心なバネがすぐに駄目になる。だから、もう飽きてきた頃にスクラップにするためにやっていたような気がしていたような。

 

片手、両手を離して膝で抱え遊ぶも技術も身につけ鬼ごっこにも応用していました。しかし、ホントにブームも短かった。今思うと作り込みされすぎていると子供の好奇心で改変が出来ない。遊び方を見いだしても固定されてしまうため、想像力を生かす事が出来ない物は、一時的な物になりやすいのかも知れません。

 

ブーム終盤ではホッピングを2本使い「竹馬」の代用もしてみましたが面白くもなんともなくすぐに辞めてしまう。そして物置へ、数年放置され気がついた頃には消えて無くなっていた。

ゴム動力飛行機

 

 

組立式の模型でゴム動力で飛ぶ飛行機は今でも普通に売られている空を飛ぶことが出来る玩具です。しかし、昔とのちがいは今の物はとにかく簡単に作れて調整もいらず完成したらすぐに飛ばすことが出来る。羽の部分が「スチレンボード」で出来ているため昔のように「竹ひご」、「リム」、「紙」、「ニューム管」、等は無く本当に誰でも作れて広場あれば飛ばすことが出来るようになっています。

 

昔は組み立てるのにも「技術」と「知識」が必要でした。何より作れない、飛ばない、加工が悪いとすぐに壊れるが当たり前の「模型飛行機」でこれが当たり前でした。販売しているところは基本的に「駄菓子屋」で種類も色々ありましたが、子供が選択する要素は袋に書かれている「絵」が重要な情報でしたので、「絵」に惹かれていざ購入してもうまく組み立てられない、或いは、組み立てたけど書かれている「絵」とは全然イメージが違うなど普通に起きていた。

 

しかし、この飛行機も「駄菓子屋」ではなく「模型店」で販売されているのは少し種類が違い「完成品」が展示してあるので実物をみて買うことが出来た。だが、駄菓子屋に置かれているのとはメーカーも違うせいか「価格」が非常に高く子供には買うことが出来ない、憧れの飛行機でもありました。ましてや「完成品」も売ってくれるようになっていますが、制作費が入っているのでとんでもなく「高額」で、只々憧れの商品でしかなかったです。

 

さて駄菓子屋で買ってきた組立の「飛行機」は翼の部分になる「竹ひご」を曲げる事からが大きなポイントになります。ロウソクの火であぶりながらゆっくりと曲げていくのですが、ちょっとロウソクの火に当てすぎて焦がしてしまい、果ては「ポキッ」と折れてしまい初めはガッカリすることが多々ありました。多少の予備(1本位)は入っているのですが、組立の先へ進むことが出来ない。

 

そして悩んでいると父親が大きさの違う空き缶を持ってきて缶の中にロウソクを立てられるように針金を加工してくれ、直接の火であぶるのではなく缶の外側の熱くなっているところにあてがいゆっくりと慌てず曲げていくと綺麗に曲がることを教えてくれるのでした。色々な大きさの缶があるのは、翼の端の湾曲が作成図(原寸)に曲がるタイプの缶で曲げないといけない事も教えてくれました。

 

この竹ひごが曲げられると「リム」翼の骨組みにある部分の接着で羽の形は出来ますので、後は最後の「紙」を貼る行程、ここでも綺麗にピンと張りのあるように貼りたいから止め口からギリギリまで引っ張り貼ろうとすることで、結局、元からのりが剥がれるか最悪、紙が破れるの災難に遭遇するのが普通に起きる失敗でした。

 

紙のたるみも、後から霧を吹いて乾燥させると張りのある「ピン」とし綺麗になることを教わるのでした。完成後、広場で初飛行!? よく飛んだと思ったら家の屋根に乗ってしまったり、最悪は、消息不明でそれまでもよく起きた最後でした。

竹馬

 

牛乳瓶の紙ぶたでも書きましたが子供の「収集癖」、とにかく集めることに全力を注ぐ野心は何なのでしょう。このマッチの「ラベル」も対象の一つでもあり、収集方法はどのように集めるか? マッチの「ラベル」など駄菓子屋では売っていません。この「ラベル」の収集自体も私の生まれた日暮里町にしかない個有の話かも知れません。

 

このマッチのラベル、住まいの近所にマッチのラベル貼りの内職工場(ないしょくこうば)があり総勢6人くらいの、おばちゃん、おじちゃんがひたすら小型の「マッチ箱」の両面に「ラベル」を貼り付けている仕事をしているのです。そしてその作業をいつも見学に行くのです。見ていると、気が散るのかそこら辺に余っている「ラベル」を何種理かまとめて持って行きなさいと持たされ追い払われる。

 

そして子供同士で山分けすると、色々なデザインで綺麗な厚手のシールのようなラベルが手元に入るわけです。何故、コレクションをするくらい種類が集まるかというと他の家でもマッチラベルの「内職」をしている家があり、遊び仲間の友達の家だったりで自然と種類が増え、今度はいつものごとく互いの交換ではなく「勝負」で取り合う遊びの対象となるのです。

 

遊び方はラベルを裏返してちゃぶ台の上に広げて、手をすぼめて上から叩き表麺にひっくり返す。ひっくり返すことが出来たら連続ででき、それが自分の取り分になるのです。一応、裏がしてあるので紙の色合いの違う物もあるのですが、相手が持っている珍しい(金、銀色)が入っている物もあったりで子供ながらに欲望に駆られるのでした。