終戦記念日、進駐軍と父の思い出

 

終戦記念日が近づくたびに思い出す父親の生き方、私の父親は終戦後から「洗濯屋」を営んでいました。根っからの「職人」で病で入院するまでアイロンを握り「手仕上げ」にこだわり仕事を続けていました。6人(男4人、女2人)の子供をもうけ私は一番下、そして生きていれば私の姉にあたる一人を幼い頃に失っています。

 

父はとても怖い存在でしたが、お客様には腰が折れ曲がるくらいに挨拶をする。このことは家族全員、幼い頃からうるさくと言うより出来なかったら「げんこつ」のご褒美がくるような家庭になっていました。そんな父ですが、色黒テレビが我が家に来た頃にテレビで戦争の記録映画が放映されると、戦争にまつわる色々な話をしてくれました。当時、私は8歳くらいの頃でした。

 

しかし、ここに子供ながらに疑問がいつも頭の中にわいてくるのです。それは、父は兵隊として戦争に行っていないこと。招集され「兵隊」として戦場に行かれた方たちからすれば「非国民」と言われるかもしれません。ある程度の歳になった私に、実際、終戦後には回りから陰口を相当言われていたと母親から聞かされていました。

 

前振りが抽象的になっていますが、ここからが本題の話になっていきます。何故、父は「兵隊」として徴用されなかったのかの疑問です。単純に「兵員」としての徴兵検査で「丙種」で兵隊にはなれなかった事実です。「身体上極めて・・・」となっていますが、身長が低いだけで何の問題もない体です。では何故に落とされたか不思議な所なのですが、何処にいたか? 栃木県にある「発電所」を見守る整備員として働いていたのです。

 

終戦後は「洗濯屋」ですが、戦争前の若い頃に男浪漫の外国航路の貨物船の「機関員」をしていて何年も世界中を回っていたことでした。そんな生き方が戦争が始まり、別の形で「技術者」として国内ですが影の力として働いていたです。何年も船の中で生活をする中で、当然ですが衣類の洗濯がつきまといます。そこで、器用だった父は乗船している仲間たちの衣類を綺麗にする「洗濯係」を請け負っていたそうです。

 

そんなことが終戦の後に生活の手段になるなどとは全く予想も付かなかった事だと思います。この技術は家族を支える職業として「洗濯屋」開業となるのですが、終戦後の何もかも失っている世の中で衣類にお金を払ってまで誰が出すでしょうか。ここに、誰も驚く度胸というか生きる力がそうさせたのでしょう。この話は大人になってから父が話していた事をやっと理解できた時でもありました。

 

父はお客獲得に「進駐軍」に営業をしに行ったのでした。ここのところは私の創造かもしれません。しかし、実際に私が3歳前後(昭和28年)の頃になりますが残留していたアメリカ、イギリスの軍人さんが直接、店に来ていましたから何らかの方法で繋がりが出来ていたのは「ランドリーボーイ」として将校の軍服を綺麗にする仕事の技術を評価され「帽子」から「軍服」、「ワイシャツ」、「靴下」までも綺麗に仕上ていました。故に、店に仕上げられ天井に吊してあるのは、ほとんどが「軍服」でした。

 

そして配達の時にうろ覚えの地域ですが王子か大塚のあたりにあった進駐軍の施設に連れられて行った記憶があります。若い頃に働いていた外国航路の経験で英語が少し話せたのが、全ての始まりとなり、きっかけとなったのでした。色々、お土産を持ってきてくれた人たちの中で、我が家で知り合った父方の叔母さんはイギリスの兵隊さんと結婚しイギリスへ渡ってしまいました。

 

私が一番下なのでよく言われていたこと「勉強も大切」だが、「何が技術を身につけろ」をしつこく言われていました。そして今、亡くなった父、母、の思い出と共に自身を振り返りこの年までどうだったのか回想するのですが、勉強はそっちのけでものにもならずでした。少し、父の系統を引き継いだとすれば「少しの器用」と些細な事でも人の役に立つような「徳を積む」事くらいです。しかしこの「得を積む」言う言葉は難しいですね。

 

終戦記念日間近で父の話を書きましたが、お役に立てるなどとても出来ません。だからこそ出来ることとして「昭和」の出来事でも残して置きたいと思い「いいもの にっぽん」を正式には1995年に立ち上げていました。途中、ノスタルジックエッセイとして出版プロジェクトで発行もされました。しかし、まだ現役で小さな会社を運営している最中で本当に「放置状態」ばかりでした。やっと、最終ゴール(自身の没)が近づき一応完成させるために全力投球でこれから進めて行くことに努力をしていきます。

 

保管されている実家が「疎遠」となる事象が発生し、最後にまとめて「昭和(父、母、進駐軍、下町の情景)」の写真をデジタル化する計画でいた集大成が出来なくなってしまったことに悔いが残ります。