昭和30年代 子供の冒険、遠くの地域へ遠征し駄菓子屋探索はドキドキ、ワクワクの楽しみだった。

 私の住んでいた荒川区日暮里町には、駄菓子の問屋街がありました。ここは現在のJR日暮里駅のすぐ近くにありましたが、大きな再開発事業により消滅してしてしまいました。この駄菓子問屋の最終日に写真を撮りに行こうと用意していたのですが当日はあいにくのどしゃぶりの雨で諦めました。

駄菓子屋 こうなってしまって思うこと。もっと前に写真を撮っておけば、後悔ばかりです。言い訳ですがこの問屋街が消滅することを知ったのが消滅する2004年の初頭で、この時は私が新しく会社を設立した時で、睡眠時間を削って奔走していた時でした。思い出深い場所の最後を見届けることが出来なかった悔しい思いでもあります。

 前置きはこの辺で、とにかく子供の頃は他のことでも書いておりますが本当にこの駄菓子問屋街にはよく通いました。しかしです。ここは、卸問屋ですので小売りはしていません。なのに何故、子どの私が私がのぞきに行っていたか? それは、何か目新しい駄菓子屋や玩具がないかの探索でした。欲しいものが見つかってもどうにもなりません。そうです。すべてが「箱単位」の物ばかりでどうにもなりません。

 唯一、大人買いで箱ごと買ったのがカードを集める様式で景品付の「ガム」を子供数人で正月のお年玉のお小遣いを出し合い買ったことだけでした。身近な駄菓子屋では売っていない物を探す。そんなことから思い付いたのが行ったことのない地域の「駄菓子屋」の探索でした。駄菓子屋なら子供の小遣いで買うことが出来る。そんな単純な思いから始めた駄菓子屋めぐり。

 小学校へ入学してから買ってもらった自転車を武器に遠征することが出来るようになり、行動範囲が一気に広がったこともあり冒険心はより大きくなり、勉強はそっちので本当によく出かけました。道路事情に関しても自動車は走っていますが余裕で大きな道路でも小さな自転車でスイスイと走ることが出来た時代です。故に事故に遭ったことも無かったです。

 子供ながらに駄菓子屋の探索条件?として頭にあったのが「駄菓子屋は大きな通りにはない」あったとしても駄菓子屋と言うよりも売っている商品はメーカー品がほとんどで子供の単価ではないことです。駄菓子屋はどちらかというと、細い小道や路地裏にあることが多く店先に商品が吊してあったりする。

 この条件で小道を走り周り、見つけたときの興奮は忘れれられません。そして自転車から降りて店の中に入り、商品を見渡すときの気持ちは子供ながらに興奮し何とも言えない気持ちで一杯になりました。そしてもう一つ子供ながらに発見した駄菓子屋の設えに共通する事、何だと思いますか? 「照明」の暗さです。

 これは、当時の駄菓子屋に共通することでほとんどの店(駄菓子屋)で照明は「裸電球」一つでまかなっていたことです。それもワット数の低い電球を使っていたこと。大人になって理解できたこと、駄菓子屋の経営はほとんど奥さんの「副業」が主体だったことです。たまに「専業」でやっている駄菓子屋もありましたが、ホントにまれでした。

 しかし専業でやっているような駄菓子屋の品揃えは、副業でやっている店舗の品揃えとは少し違って幅広く目新しい物も揃っていたりしたのですが、子供の小遣いの範囲では変えない単価の物も多くあまり行くことはなかったです。奥さんが副業でやっているような駄菓子屋が本当の子供向けの店だと子供ながらに感じていました。

 出向く地域もどんどん広がり、地域によって品揃えが違うこともだんだん分かってきて本当に楽しかったです。子供ながらのマーケティングです。当時、文京区の根津は子供ながらに御屋敷町として見ていてこちらにあった駄菓子屋の品揃えで特徴的であったのが「子供雑誌の付録」だけが袋詰めされたものがあり、何が入っているかは分からないようになっている。

 その袋は紐で綴じられていて、自分でその紐から引きちぎる方式で子供の単価からすると結構高額で「50円位」の物でしたが付録の工作物がもらえるのでたまに買っていました。これは下町の駄菓子屋では何処にもなかった貴重な物でした。私も子供雑誌を買ってもらっていましたが、読むよりを付録だけを楽しみにしていたので、それが付録だけを買うことが出来る事は子供ながらに魅力的でした。

 今で言うところの「知育玩具」に当たるのかと思います。根津にあった駄菓子屋では反対に何処にも置いてあった「大根の酢漬け」や「酢イカ」、「すもも」など駄菓子の最たる物が置いていなかった事を思い出します。「箱物くじ」、食べ物でも「衛生的パック」がほとんどで、下町の駄菓子屋にあったものが見当たらないといった特徴もありました。

 それに比べて下町の駄菓子屋では、半生菓子類等も真夏ですら常温で保管が当たり前です。それでもお腹を壊すなどはありません。「ストロー寒天」はガラス管が容器でたまにガラスの欠けらが出てくる。これも普通で、あったら口から吐き出す。吸ったらガラスで唇が切れた。これも「自己責任」で、誰も文句を言わない。当たり前の日常の一コマでした。

 当時、下町の子供達の感覚は何とも野蛮なと思われるかも知れませんが本当の事です。私の書いた本でも紹介した「ミカン寒天」の話で、何故か夏に販売されるのです。それも、保管は常温のショウケースの中に置かれているのが普通でした。ある時期突然、駄菓子屋に驚きの事柄が起きました。それは駄菓子屋で季節物ですが「もんじゃ焼」が出来るようになった事、これは衝撃的でした。

 しかし、駄菓子屋で「もんじゃ焼」が出来るところは限られています。故に、「もんじゃ焼」が出来るところまで子供同士で連なって遠征して食べに行くことも楽しみでした。このことは近所の駄菓子屋に影響があったのでしょう。しばらくしたら、店の奥の自宅の一部を改造して、何と「もんじゃ焼」が食べられるようになったのでした。

 わざわざ遠征しなくても近所で食べられるようなったのです。ちなみに当時の「もんじゃ焼」とは中に何も入っていません。お椀に「味付の汁」のみで「1杯 10円」でした。それでも子供同士でワイワイ騒ぎなら食べたもんじゃ焼は格別で美味しかった。小遣いに少し余裕があると、トッピングで駄菓子を買って混ぜて食べるのも楽しみでした。

そしてもう一つ季節物で対象的な夏限定の「ところ天」も店が限られたメニューでした。子供から注文が入ると、おもむろにバケツから寒天を一つを取り出し突き棒でシュッと器に入れてくれタレを掛けてくれます。価格は確か一杯10円だったと思いますが、夏の暑い中の一杯は子供ながらに格別の味でした。

 この「ところ天」駄菓子屋によって味が違うため、子供たちの中でも、どこそこの駄菓子屋(呼称で呼んでいた)がうまいと言った好みも話題になっていました。

 駄菓子屋で販売されて駄菓子の一部ですが「酢イカ」、「スモモ」、「各種ジャムもどき(ウメ味、ミカン味、ヨーグルト味)」、「寒天ミカン」、「あんこ玉」、「 きな粉棒」、「アンズ」、「串アンズ」、「固形ラムネ各種」、「梅ジャム」、「ソース煎餅」、「シガーチョコ」、「チョコレートもどき?」、等々、すみません名前が出てこない。

 この中で「梅ジャム」はつい最近まで普通に販売されていた超長寿命の駄菓子だったのですが、つい最近、生産者の方が廃業し無くなってしまいました。 この「梅ジャム」は当時「5円」で買えました。この梅ジャムはニュースでも何度か取り上げられましたが、生産者のかたくなな意気込みで値上げは一度だけで「10円」の価格を守り最近(2017年)まで販売していました。

 そんな駄菓子屋ですが、今も現業を続けている方がニュースになったりして紹介される事もあり懐かしく見ています。駄菓子屋は子供には絶対に必要な存在だと思います。自分の意志でお金と対価に値する商品を選ぶことを決定し交換する体験は、私個人の勝手な解釈ですが、子供ながらの大きな実体験の意思決定や判別能力、積算能力に繋がるのではと思います。

追記

 梅の花本舗(うめのはなほんぽ)は、東京都荒川区で昭和中期からジャムを製造・販売した企業。2017年12月20日に廃業従前から駄菓子を紙芝居屋に納品していた。傷物の梅干しの果肉が梅肉として乾物屋で販売されていることを知り、塩辛い梅肉を潰し、水で溶いて煮詰め、小麦粉・甘味料・着色料などを添加して練りあげて作る「梅ジャム」を1947年(昭和22年)に発売し、おもに関東地方で多く販売した。梅ジャムに並行して「オレンジジャム」も製造した。介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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