昭和30年代 我が家の年末恒例「餅つき」 ほのぼのした下町の年末の出来事

 家業でもある我が家は洗濯屋、年末の慌ただしい中、大人たちは毎日夜遅くまで仕事をしています。当時住み込みの職人さんもいて、商売としては活気のあった時代でした。
 私の父親のこだわりで毎年12月28日は「餅つき」の日となっていたようで、子供の側からしても楽しみにしていました。

 子供ですからお祭り感覚で大人たちがせわしなく動き回っているにもかかわらず、うろうろと邪魔になるばかりで怒られるのでした。
 祖母と母親は、前日から餅米を一升ごとに小分けし餅米を研いで、水切りと蒸す為に蒸籠(せいろ)に入れて下準備を行っていました。当然、水切り用のザルの数が数が足りないのでザルを、ご近所を回ってお借りしてきます。

 子供の目で見た当時の覚えている餅の量は10升位は普通にありました。何でこんなに多いのかは、お礼を兼ねてご近所の分まで、のし餅、鏡餅を作るためでした。餅のつき手となる人数は我が家で足りるのですが、さすがに体力的な限界が起きてきます。するとご近所の方も加勢して手伝ってくれます。

 だから家中、色々な人が何らかの餅作りの作業をしています。子供に取ってはお祭り騒ぎです。しかし見物組の子供にも特典があり、休憩時にはつきたての餅をあんこ餅・大根餅・納豆餅等々お手伝いしてくれている人たちが、作ってくれるのが何よりの楽しみでした。

 ちなみに餅をつく場所はどこかと言うと、洗濯するための仕事場です。屋根の高さも高いため、杵を振り上げてもぶつからないので大丈夫でした。一時期、店の前の道路でついた事がありましたが、見物人が出来てしまい道を塞いでしまったため、それ以来外で餅つきはしませんでした。。それ以来餅つきの時は洗い場をかたづけて、餅つき専用の場所として仕事場が餅つきの定例の場所となりました。

 餅つき当日、杵と臼でついたときにしか食べられない半つき餅が楽しみでした。(餅と言うよりおこわです)これに醤油をかけて食べるのですが、少し餅米の歯ごたえがありなんともいえないうまさがあり、食べ過ぎてしまう逸品も子供なりに堪能しました。

 しかし子供ながらに感じた餅つきが終わった後の片付け。家中の座敷に新聞紙が惹かれて片栗粉だらけの状態。そんなことはお構いなしで、子供は歩き回るから後片付けは大変です。掃除機などまだないので、総出で雑巾がけを行い綺麗に掃除をしていました。

 こんな「餅つき」ですが絶対に開けてはいけない扉が、お客様の洗濯物を保管していある店舗部分に繋がる所です。
 ここは子供ながらに兄弟もきちんと守っていました。当時は本当に「勝手知ったる他人の我が家」ですので、人の出入りが多く冠婚葬祭なども本当にお互い様精神です。年末は特にせわしなく人と人とが関わり合った思いででした。

追伸
 この時に、ご近所の方からお借りし使用していた杵と臼は持っていた家が引っ越すことになり、我が家で預かることになりました。しかし、何年後かには今度は我が家の立て替えで保管場所がなくなり、ご近所で、遠い親戚の方に保管してもうことになりました。

 そして月日を重ね私が子供を持つようになり、なんと私の子供の通う「保育園」に「杵」と「臼」が最後に預けた方から寄贈される形で再会したのでした。物を大切にする心が引き継がれた
瞬間でもあり、20年以上の月日がたった驚きの再会でした。

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