昭和の縁日 番外 「大人の決め事」と「地割り」、 「縁日の形態」と「口上による集客」


 昭和30年代子供の目で見た大人の世界と大人の事情、勉強そっちのけで「縁日」が大好きでどうしようもない子供でした。特に夏のお祭りは夏休みも重なり自由に動けるので大興奮の日々になっています。特に4年に1度の「大祭」は子供だけではなく大人達も何かそわそわしているように子供の私には見えました。

 1ヶ月前くらいから「社務所※神社の奉納受付代行?」が神社の氏子の地区ごとに設営されます。社務所の呼び方は正しいのかは解りませんが、この時代大人達も「社務所※しゃむしょ」と呼んでいましたのでそのままの呼称で書いております。ネットで調べると神社の事務所となっております。

 この社務所が設営されると誰かしらが必ずテントの中に待機しています。そして設営され少してから神妙な出立ちで神社の関係者の人達が訪れ、社務所(テント)の奥に祭壇のような物が設置され儀式的なことが始まります。子供もの目線ですから???ばかりでよく分からないまま、その光景を眺めているのでした。

 しばらくすると終焉となり、大人達は各人手にコップをお酒を注ぎながら、その後は歓談へとなっていくのです。見ている子供は、追い払われてしまいます。それでも遠目で見ていると、今度はお祝いの袋を持った人達が、あちらこちらから訪れるのです。

 私の住んでいる地域では、近くの商店街の中に設営さますので当番でいつも誰かしらがいます。しかし、地域によっては、日中だけや夜だけだったりとその場所の状況に合わせていたようです。この社務所の設営は、諏訪神社の氏子の地域(日暮里町)には必ず設営されていました。

 そして判った事、神社へ奉納するための寄付だという事が子供ながらに理解できました。そしてこの後に、各家の玄関や入口の軒先へ鍵型(L字)の木で出来た物を取り付けるため袢纏に地下足袋装束の人達が町内に現れ祭の飾りを取り付ける鍵型の木を、釘で打ち付け取り付けて行くのです。

 ここまでの流れの中で「社務所」、「神社へ奉納」と「袢纏に地下足袋の装束の人達」、私自身が少し大人になり過去の祭の状況を思い出しながら人々の関係性や組織だった流れ、神事として古くから継承されてきている「祭」を考えていて、子供の目線で見ていた時の大勢の人と人との繋がりが組織化され統制が取られていることも理解できるのです。

 この辺までが「祭」を主催する神社を中心に、「各地域のお偉いさん」や当時はやはり多かった「鳶※とび」の職人を管理している「頭」が仕切っている「建築業※足場の組立を主に土台の基礎工事」、時には「*組」の名称もありましたが「暴○団」ではありません。

 町内の家々の軒先に祭の飾りを取り付けるの先の「鳶関係」の人々の仕事でした。ここにも大人の世界の事情による「割り振り※地区割り:縄張り」があり、どこからそこまでが誰それの担当地区と決まっていました。私の家の近くで「江戸町火消し」で代々続いている「○組」の頭が仕切っている事務所がありました。

 事務所の入口に大きな「纏※まとい=旗印」が飾ってあり、大勢の鳶職の人達が出入りしいつも活気があるように見えました。私の家の建て替え等もお世話なったこともあり、町内の仕事はたいてい任されており繁盛していました。やむを得ず他所の鳶に頼む場合などは、しきたりで「顔出し=挨拶」に出向かなければならない約束事があったようです。(私の父親が親方をよく知っていて、この話を教えてくれました。)

 縁日の話に行きつくまで非常に遠回りになっていますが、どうしても足下から書き残していきたいと考え流れに沿って書いていたらやたら前口上が長くなってしまいました。「祭」と言う「神事」良い機会ですので、頭の中にある情報を文字に起こし残しておきます。

諏訪神社 ここからがやっと「縁日」に関わるお話になっていきます。子供の頃から「縁日」が大好きでしたから、当日の朝早くから諏訪神社に向かい準備する前から境内の高い所に陣取り眺めています。すると神社の境内の広い所に、大人が10人くらい集まって地面に棒きれで何か書いています。

 時折大きな声も聞こえ、ただならぬ状況に見えたりもします。この昭和30年当時、諏訪神社には本当に数多くの色々な露店が出ていました。毎年のようにこの光景は起きていました。少し、大人になりこの辺の事情が理解できるようになって判った事です。毎年開催される縁日はどこにどの店が出ているなど、だいたい決まっていました。

 それが、何らかの事情で出店する露店に変更が出る。そのために「地割り」を再調整しなければならない事が起きるため、時には既存の露店が移動しなければならない事もあるようでもめることがあるそうです。この情報は子供の頃から顔なじみになっている露店の人から聞いた本当の情報です。

 露店の大きさと種類で普通では「三寸※三寸と言っても間口270㎝」が多く、「小店※三寸よりも小型」と呼ばれる様式から「ビタ※地面に緋毛氈 (ひもうせん)や茣蓙(ござ)などを敷いて商品を陳列」などの様式の露店が並ぶわけです。故に、変更が出ると大変な調整が必要になるわけです。同業者同士が近づいてもいけない、位置が変わることで売上が変わる、等々大人の事情もありで大変重要な取り決めのようでした。

 この当時の縁日は、現在の西日暮里駅の上にある諏訪神社境内から日暮里駅までの駅までの区間一杯に続いていました。それでもやはり人混みの多さは「諏訪神社境内」が一番でした。故に、場所の割り振りは大変だったようですが。境内にある露店はほぼすべて昔から変わらず同じ露店が設営されていました。

 そんな中で臨時の場所が設営されることもありました。その場所とは神社の端(線路側)にある神社の横裏になる場所で、本当にたまにでしたがここにも露店が出ていたことがありました。しかし、場所も悪く、あまり人気があるような露店ではなく人だかりもなく、ひっそりとした感じでした。

 子供ながらに感じていたことは、同じような露店は近くになかったことでした。それなりに設営の距離も考えて割り振りしていたと思われます。考えてみれば駅の一区間の長い距離に同業者を近づけず「地割り」して露店が並んでいたことは、それだけ色々なタイプの露店があった事でした。

諏訪神社 縁日 先の臨時の神社の横裏に出来る場所で出ていた露店は、「ビタ* 地面に緋毛氈 (ひもうせん)や茣蓙(ござ)などを敷いて商品を陳列して販売する露店」で「物差し売り」、「ベルト売り」、「半端な生地売り」、演出で手さばきを見せる「クジ売り」、等々で、どちらかと言えば講釈を述べながら商売する「啖呵売」が多かったです。

 それは考えてみれば解るとおり人通りがないところですから、なんとか気を引くような形態でなければ誰も気がつきません。故に色々な演出をかねての商売人でなければならなかったようでした。例えれば「寅さん」そのままです。少し大人になってから判った事で、このような臨時で出るのは「流し」で全国を回っている「香具師」の人達のようでした。

 その中で子供ながらに変わって見えたのは「古本」を売っている露店でした。ここは不思議と大人が立ち寄り色々並んでいる本を手に取り立ち読み、座り読み、無言でしたが色々な形で「人付け※人だかり」が出来るのでなんとなく他から見ると目に付き連鎖で人が流れてくる不思議な露店でした。

 しかし時代が変わり、何かすべてが過去の思いにしかならないことを実感したときがありました。年を重ね何十年ぶりかに「諏訪神社」の大祭の時に写真撮影をかねて女房と一緒に散策に出かけました。西日暮里の駅から脇にある坂を昇っているとお祭りのお囃子が聞こえてきました。

 童心に返ったように「心ワクワク」、そして境内に入ってみた光景は・・・、そうなのですなんとガラガラに空いている露店の様相、目に入ってきたのは過去の情景とは似ても似つかない現実でした。変わっていないのは「お神楽」で演者は昔と変わらない、演じているのは後輩に当たる昔の地元で代々続く演舞者でした。

 寂しさを感じながらとぼとぼ、かつては日暮里駅までの沿道を埋め尽くしていた道を歩き谷中銀座のだんだん坂までを歩きました。道すがらここには「木目込み人形」、この神社の境内には「ゴリラ風船」、等々、当時の思い出が頭に浮かぶのでした。縁日とは少しかけ離れていますが昭和の祭に関わる豆知識でした。

●地割り(場所の割り振り・位置決め)

 「縄張り」の言葉で連想するのは「○○団」となってしまうと思います。どうしても連想と言うより実際「香具師※後にテキ屋が俗称」、「露天商」の方々は商売する関係から、どうしてもどこかで関わる事が必要にならざるえない関係が江戸時だから続いていました。

 昔から「お天道様の下」とはいえ露天で商いをすることは、見方を変えると「統治」、「統制」的な関係を必要とされていた事もあるからです。昭和の時代までは露天商、流れの香具師を取り仕切る専門の「組」も存在していました。時代が変わり「露天商組合」が出来たりしていますが、どこかで関係が取り沙汰されたりもしてます。

 近代ではそのしがらみを断ち切る為、行政の援護を受けながら色々な形で頑張っている露天商組合も多くなってきているようです。この辺はこの程度にし、夢多き「縁日」を末永く楽しめてることを願い終わりとさせていただきます。最後におまけで露店の形態を付記させていただきます。

●露店の造り

三寸 ⇒(さんずん) – 縁日の焼きそば屋のように台を使用する露店
小店 ⇒(こみせ) – 三寸よりも小さい台を使用する露店
ビタ ⇒ 地面に緋毛氈 (ひもうせん)や茣蓙(ござ)などを敷いて商品を陳列して販売する露店

●商売の形態

・啖呵売(たんかばい)⇒ 有名なのはバナナのたたき売りです。色々な口上を立て板に水のごとくすらすらと口上を述べ、お客と言うより見物人の気を引くことで購買欲をそそり、サクラもいるため演出効果は大きく購買の連載へと繋げて販売をする。

・口上売(こうじょうばい)⇒ 変わったところで半端生地に量り売り、こちらは口上と共に鯨尺(くじらじゃく=定規)を巧みに使い一見得したような測り方を見せて、実は買ってみるとその長さはない。テクニックと笑える口上で見ていても楽しく、騙されるのも工賃として割り切っていた「掛け合い」の見世物的な商売の形でした。

参考:「外郎売※ういろううり」薬売りの口上を早口で語り販売する様式として残っています。残っている言っても今は、歌舞伎としての一幕、アナウンサーや声優の教材として使われています。文字数が多くとても長い語りになるため覚えるのは大変のようです。

・無啖呵(むたんか)⇒ 販売する商品をただ並べているだけで何も話さない。声を掛けると、めんどくさそうに少しだけ話すが余計なことは一切言わない。雑貨、古本、ベルト等の販売が私の記憶にはあります。

・泣き売(なきばい)⇒ この形は、幻とも言われるほどに貴重な形の販売方法です。見出しのごとく「泣きながら語り人よせ」する販売の形です。私が高校生になったばかりの頃、池袋の公園の片隅で見たのが最後でした。これは、もう演者(鳴き真似)とサクラ(偽客)との掛け合いで成立するため非常に非効率です?

それでも不思議な物で人の群集心理で一人、二人と集まってくるとすぐに十人くらいに膨れ上がります。売っている物は当時お決まりの「万年筆※高価だった」で、内容は働いていた工場が火事になり倒産、給料がもらえず焼け残りの中から持ってきた「高級万年筆」ですので、家族を養うために安くするので買ってください。

すると「サクラ」が同情を引くような台詞の掛け合いで「五本くれ」と買います。五本分の値段を聞き、声高に見ている人に「こんな高級万年筆が安く買えるなんて・・・」等々、同情を膨らまして盛り上げていき購買動機に繋げていく方法です。ちなみに私も興味本位で「一本」買いました!! この万年筆少ししか使わないのに書けなくなりました!!

●移動式

屋台 ⇒ これは皆さん誰でも知っている形態の商売ですね。おでん、夜鳴きそば(ラーメン)、きびだんご
自転車 ⇒ シンプルな形で移動も早く、すぐに商売を始められる様式です。紙芝居、あめ細工、しんこ細工
棒手振り(ぼてふり) ⇒ 天秤棒を担いでその両端に桶や箱を吊り下げて歩くスタイルです。金魚、薬
引き売り(ひきうり ⇒ 躯体がなく骨組みだけで道具を積載しているスタイルです。石焼き芋、爆弾あられ、アメ屋、金魚、植木、爆弾あられ、きびだんご、羅宇屋(らうや)

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