昭和30年代 学校給食の思いで!? 鯨肉の竜田揚げは忘れられないうまさだった!!
昭和30年代の学校給食の思い出を書こうと思い、印象の強かった小学校の学校給食を記憶を頼りに書いています。そんな状況の中で、たまにテレビなどで取り上げられる今の学校給食の献立は、ファミレスのメニューにあるようなものがあったりで驚きました。昭和30年代との比較のしようも無いくらいに進化していることに只々驚くばかりです。
学校給食は人の成長を育む為の栄養の摂取には必要不可欠な物です。そして今は食べることも重要な教育の一環としての考え方から、「食育」としての言葉と共に考え方も大きく変わっていることも知りました。栄養士や食品管理の専門家、そして提供するために必要な予算に応じ、美味しく、栄養豊富、且つ、成長に必要な各種栄養バランスを考え構成された献立はすごいなと感じております。
話は昭和30年代へ過去を振り返り歳を重ね知識も少し持って考えると当時の学校給食とは、子供の腹を満たし栄養を補給すること、そして親の手を煩わさせずに子供の食事が提供されるという位置づけではなかったかなと考えます。
当時の思い出深い「献立」、どうにも「まずい」としか印象に残っていない「ミルク※脱脂粉乳」、パサパサだった「コッペパン」、6年間の間で確か2回くらいしかでなった特別なパン「パネトーネ※ドライフルーツが入っていた」、やはり年に数回しか出なかった「揚げパン※コッペパン」等々、記憶にあるものを状況も踏まえ書いてみようと思います。
私の通っていた小学校は、家から子供の足で3分かからない小学校があったにもかかわらず、当時の普通に行われていた越境入学で兄弟全員がわざわざ子供の足で15分もかかる小学校へ通っていました。特別でも何でも無く、当時の流行というかこのような考え方があったようです。故に近所の子供仲間でも学校が違うため、話題が合わず子供ながら違和感を持っていました。
学校が違うため帰宅して近所の子供仲間と遊んでいて、給食の話が出ても献立が違うため話がかみ合わないなんて事も多々ありました。そんな状況でしたが、献立によって提供される日が違っても子供仲間でも良く話題なる「沢山食べたい」と良く話に出た共通の献立が「鯨の竜田揚げ」でした。醤油ベースで味付けした「鯨」の肉に片栗粉をまぶしてあげた逸品です。
この献立の時は調理室から、お昼近くになると何とも香ばしい香りが風に乗って教室に入ってきますので、今日は「鯨の竜田揚げ」だとすぐに分かりました。この献立の付け合わせは決まってキャベツと人参とキュウリに鰹節を塩味で和えた副材が付いていたと思います。これは学校が違う子供仲間でも共通の人気の献立でした。
ちなみに当時は、鯨の肉は普通に家でも食べていました。世相的にも「鯨肉」は普通に流通していたことと、今の時代のように捕獲に制限もなかった時代ですから、安く、美味しく食べられていました。学校の給食とは違いますが「鯨の南蛮漬」等は、普通に家庭でも食べていました。しかし焼いて食べるの違い、油で揚げた「鯨の竜田揚げ」は全く違った美味しさがありました。
余計な情報ですが、今で言えば「鳥の唐揚」になるかも知れませんね。しかし当時鶏肉は高級な部類の肉でした。また、今のような「鳥の唐揚」等も、普通の店では扱っていなかったように思います。我が家では鶏肉を食べられるのは、年に一度の「クリスマス」でローストチキンでした。貧乏くさい話になりますが普通でした。
主菜ではないのですが、脇役的なスープの部類で美味しかったのが「マカロニ入りのカレースープ」これもたまにしか出ないのですがとても美味しかったです。これは、今も自身でたまに自分で作ることがあり食べています。これを作るときは、市販の固形カレールーではなくカレーパウダーを使うことが重要で、シンプルにタマネギ、人参、少しの豚バラ肉とマカロニを入れて小麦粉で少しとろみをつけると完成です。
今までとは対照的で6年間、ずっと付いて毎回必ず出てきた「ミルク※脱脂粉乳」はどうにもならなかった代物でした。低学年の時は我慢して飲んでいましたが、学年が上がるにつれて飲まないで食器の回収時にほとんどの子供が容器に戻していました。残菜の確認をしていて、不人気なのは給食場の人達も分かっているはずですが、後に当時の時勢や行政の方針で必ず使用するようになっていたことを知りました。小学校6年間で一回か二回位だったか、コーヒー牛乳のようになっていたときは私含め全員飲んでいました。
次は「コッペパン」今でも現役で専門店もあるくらいの超有名なパンです。しかし、当時の「コッペパン」はと言うと「パサパサ」「ボソボソ」で少しの塩けだけのパンでした。贅沢は言えませんが、子供の食感でもとても美味しいとは言えませんでiした。当時は、小麦を製粉する技術も今のように確立されていない時代で、且つ、製パン技術などもコスト優先で手間暇掛ける事も出来な時代です。
製粉した小麦粉にイースト菌を入れてとにかく簡単に成形し発酵させ、焼成したものが当時の「コッペパン」でした。今の時代から見た考え方でいけば、繊維質は豊富で栄養満点なパンになるのかも知れませんが子供からしてみれば美味しくなかったです。小麦を製粉するときに小麦を覆っている皮の間にある「ふすま」を完全に取り除く手間を省き、無駄をなくしとにかく量産する事が優先ですから致し方ないことです。
だが、好まずコッペパンも揚げパンにされた物が年に一度くらい出ることがありました。油で揚げると、当然油分が加わるため甘さが出て、これは味が一変するので美味しかったです。
当時、この美味しくなかった「コッペパン」は病気か何かで欠席した人がいると学校の終業時に欠席した人の家の近い人が届ける習慣がありました。私も届けてもらったこともあるし、届けたこともありました。表現悪いのですが、とても食べられません。このパン、給食の終わった後に先生が「わら半紙」に包んで先生の机の下に保管しておくのです。そして終業時に届けることを担当する子供が持っていく仕組でした。
普通に食べても「パサパサ」「ボソボソ」の物が、ビニールならまだしもわら半紙に包まれて給食の後、数時間放置されているのですからどうなっているか想像してみてください。叩くと音がする!? ホントです。私の所に届けてもらったコッペパンを母親はもったいないから、焼いてあげると言って焼いてくれました。もう「フランスパン」どころではありません。ただ乾燥した物体でした。しかし母親はもったいないと「紅茶」に浸して食べていました。私は口にすることもなく眺めているだけ、こんなことも給食の思い出の一つです。
高学年になると課外授業として上野公園まで子供の足で1時間くらいで歩いて行けましたので、桜の季節に美術の勉強兼ねて朝からスケッチに出かけるときがありした。その時は、特別給食として出かけるときに「牛乳※瓶」一本と「パネトーネ※ドライフルーツ入」一個を各自、自前の袋に詰めて上野公園まで先生の先導で歩いて行くことがありました。
子供からしたら牛乳はともかく「パネトーネ※ドライフルーツ入」など見たこともなかったのでお昼が楽しみでした。そしてお昼時間、各自散らばっての食事になります。結構大きなパン、紙の容器でそのまま焼き上げてあり少しづつ周りの紙を破りながら、ちぎって口に入れたら・・・、見た目だけでガッカリ。
何故かというとコッペパン同様なのです。牛乳で流し込まないと喉を通らない。せめての救いは少しの「ドライフルーツ」の甘みだけでしたが半分も食べずギブアップでカバンしまい込み、牛乳だけを飲み干しお昼は終わりでした。私と同じようにギブアップした仲間が多かったです。
後半、悪口ばかりになってしまいましたが子供が感じた当時のそのままを記憶を頼りに書いてみました。当時、給食を調理している人の中に、私の家で洗濯屋の職人の見習いで働いていたお父さんがいました。だから学校へ行くと給食場の叔父さんが調理しているところをのぞきに行っていました。
当時、子供ながらに調理することに憧れていたときがあり自宅でも見よう見まねで色々料理を作ったりもしていました。私が大人になる課程で、職の遍歴に通信機器管理技術者から転身「ファミレス調理長12年」、「某ドーナツ チェーンフード スパーバイザー15年」のキャリアを身につけ最終的にアナログとデジタルの両極を持ったシステムコンサルタントへ戻り、20数年もうすぐ72歳いまだ現役で今に至っております。